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「人間ならば…」を巡って

ブログを開いていただき、ありがとうございます。
凜音です。

常識やマナーがなっていない人に対して、「人間ならばそのくらいして当然でしょう」と皮肉るのを聞いたことがある人がいると思います。

あるいは、実際に言ったことがある人もいるのではないでしょうか。

今回は「人間ならば〇〇で当然だよね」という発言(以下:人間ならば構文を使うこと)に対して、以前と現在で変化した私の価値観や考えを書きます。

大学時代の話

大学時代、人間ならば構文をよく使っていた同学科の男子学生がいました。彼は学科内でも成績トップだったということもあり、「人間ならば〇〇の定義くらい言えて当然だよね」、「人間ならば〇〇の定理くらい証明できるよね」などとよく言っていました。大学院へ進学したくらいなので、“できて当然“という考えから自信満々にそのように言っていたのだと思います。

当時は彼の発言に対して、特に何も感じませんでした。人間ならば構文に対しても、常識やマナーがなっていない人を皮肉るための便利なフレーズだなくらいに思っていました。

特別支援学校に勤務して…

私は春から特別支援学校に非常勤講師として勤務しており、知的障害のある高校生を相手にしています。彼らには、一見健常者と変わらない生徒や発語や感情表現ができない生徒など、十人十色では表しきれないほど様々な特性がある生徒がいます。

私は支援学校に勤務するまで知的障害者は、地域の学校の特別支援学級にいるような軽度の人しか知りませんでした。勤務初日に、発語や感情表現ができず叫んだり暴力的になってしまったりする生徒を見た時は、とても衝撃を受けました。

私も過去に人間ならば構文を使ったことがあります。しかし、発語や感情のコントロールができない人を目の当たりにし、自分が普通にできることができない人もいるのだと思い知りました。そうして、人間ならば構文を軽々しく使ってはならないと痛感し、過去の自分の言動を恥ずかしく思いました。

2021年末の私が彼に対して思うこと

今思えば彼は、「数学科学生ならば〇〇の定義くらい言えて当然だよね」などと言いたかったのでしょう。そうであれば、人間ではなく数学科学生に範囲を縮小した方が良かったと思います。

私も人間ならば構文を使ったことがあるので、当然彼のことを叩けません。しかし将来教壇に立つのであれば、むやみに人間ならば構文を使わない方がいいと思います。当たり前ですが、どんな人にも必ずできないことがあるからです。

特に教員になれば、特別支援学校に勤めていなくても知的障害のある生徒に教える可能性は0ではありません。中高生の時点では、人と同じように日常生活を送れなかったり勉強についていけなかったりする原因が、知的障害であると気づいていないことが少なからずあるからです。(注:発達障害や学習障害が原因ということもあります)

仮に、勉強についていけない生徒に対して「人間ならば因数分解くらいできて当然だよね」と言ったとします。後にできなかった原因が障害であったと判明しても、「そんなつもり(意味、ニュアンス)ではなかった」や「障害があるのなら仕方ないよね。ごめんね。」では済まされません。

彼には修士を取得して教壇に立つ前に、むやみに人間ならば構文を使わない方がいいと気づくよう、頭の片隅で祈っています。


私は障害のある高校生たちと関わって考えが変わったので、上でも教員と障害を例にしました。しかしこれは当然、自分が教員であるかどうかや相手の障害の有無に限った話ではありません。ただでさえ誤解を招きやすい上に、使い方によっては価値観の押し付けや相手を否定することになり得るからです。


この記事を読んだ人の中で、障害のある人と関わったことがある人は少ないと思います。そのような人にはピンと来なかったかもしれません。

しかしそのような人でも、どんな人にもできないことは必ずあるということを頭に入れておくことは大切です。そうして、自分はできるが相手はどうしてもできないことを思い浮かべれば、この記事を理解しやすくなると思います。


「人間ならば、“人間ならば構文“をむやみに使わないほうがいいよね。」というお話でした(笑)


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
他の記事も読んでいただけると嬉しいです。


それではまた。


りおと

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