究極のへき地医療
劇場版『荒野に希望の灯をともす』。昨日観た映画の感想文です。
中村哲さんの色々について語ろうとすると、必然的に様々な切り口があることに気づきます。と言っても私は講演録を一冊、そして今回の映画、それだけの情報です。
一応、医療分野の隅っこで働いている私はまず「へき地医療」というものの現実に精神を揺さぶられました。そこには当然「異文化の理解」が必須です。そしてそれは「国際貢献のあり方」にもつながりますし、その先には「国際平和とは」というとてつもなく大きなテーマが横たわっています。
日本においても「へき地医療」は存在します。「Dr. コトー診療所」なんていう漫画(テレビドラマ化)もありました。しかしアフガン~パキスタン国境付近の山岳地帯においては、我々日本の都市で暮らす者の想像を絶する光景がありました。先進諸国では撲滅したとされるハンセン病が現在進行形で人々を蝕んでいます。マラリアなどの伝染病もしかりです。もともと医者が一人もいない地域ですから、医療資源はゼロです。そんなところへ日本から医者が一人青空の下、聴診器とペンライトで一体何ができるというのでしょう。
日本のへき地医療とそうした途上国でのへき地医療の決定的な違いは何でしょう?・・・答えは「水」です。日本なら、どんなへき地でもおそらく飲み水に困るということはないでしょう。もしあったらすみません。きれいな水がなければ、どれだけ抗生物質や手術道具があっても意味をなさないのです。
そういうわけで中村哲さんは土木工学を一から独学し、ユンボを操り用水路の建設に挑みます。しかし始まりは、パキスタンの無垢な高峰を目指し登山隊の医療スタッフとして彼の地を訪れたことです。そこで彼は、病気や飢えで苦しみ、薬を分けてくれとすがる現地の人々を「見捨てて」しまいます。当然です。彼がその時携えていた薬や医療資材は登山隊のためのものだったのですから。しかしその時の「苦しむ人々を見捨てた」記憶は哲さんを再びパキスタンへ向かわせたのです。(山岳地帯の民族にとってはそもそもアフガンもパキスタンもない)
詳しくはやっぱり映画を観てもらうとして、私の心に一番グサッと刺さった言葉は現地の人のある一言でした。哲さんが、診療所を建てる計画を現地の長老たちに説明している場面でした。「あなたは気まぐれに私たちを助けて、すぐに去ってしまうのではないですか?」
ご存じのように国際貢献のNGOは数多あります。ユニセフやMSF(国境なき医師団)、赤十字などのメジャー組織から、哲さんのペシャワール会など手作りの団体まで、おそらく様々な団体がこの地を訪れては去っていったのでしょう。大体メジャー組織は命を張ってまで活動しません。政情が不安定になったら直ちに引き上げるそうです(それがダメだと言っているのではありません)。彼らが外国の支援団体に対して猜疑心を抱くのは、そのような一瞬の喜びとその後の落胆を幾度か経験した結果なのでしょう。
「だったら自分らでやれや」ニヒリズムが大好きなネット民の声が聞こえてきそうです。「ほな一回アフガンに生まれてみろや」と返せば喧嘩になります。確かに、人は自分が生まれた国で社会で懸命に生きればいいのであって、他所の国や地域を支援して自己満足してるのは単なる偽善者じゃないか、という論に私はうまく答えられませんし、私自身も情けないことに誰かを支援する余裕は現在ありません。今回の映画代すら躊躇するレベルの暮らしです。しかしそのような云わば些末な論争など吹き飛ぶほどの現実と中村哲という人の実直がスクリーンを通して迫ってくるのがこの映画です。
(ちなみにメジャー団体に寄付をしたらいったいどのくらいの割合が現地に届くのか、一度調べてみてください。知っておいて損はないと思います。)
話が逸れました。現地の長老からの件の問いに対し、哲さんは「私が死んでも必ず診療所は続ける」と約束します。歴史的に過酷な自然環境や国際紛争の犠牲になってきた人たちに、辛抱強く接し信頼を勝ち得てきた哲さんの活動の特徴は「現地の文化を第一に」ということです。例えば、現地の女性は宗教の戒律により家族以外の男性に顔を見せませんが、「それじゃあ診察はできない」とか、ジェンダー論を持ち込んだりということは絶対にしません。自分が診察できないならと、女性の医師を育てます。
我々の頭は、自分が生まれ育った国や社会の「規格」でできていると思ってまず間違いありません。ですから大人になるほど他の国や文化を理解できないか、理解するのに非常に努力を要します。
哲さんが現地の人と一緒になって10年以上かけて建設した用水路をある日本の政治家が見て、「これくらいの用水路なら、100億くらい出して日本のゼネコンにやらせたらあっという間じゃないか」といった発言をうかつにもしたそうなのですが、私もこの映画を観たり本を読んだりしなければ同じように考えたと思います。まさに「日本製の頭」で考えるとそうなるのです。「ぇ、それじゃダメなの?」と思った方は是非この映画を観るべきです。
ニュースからはこのようなことは決して見えてきません。アフガンと言えばほぼカブールの現状のみです。例えば、人口のごく一部である都会に住む女性にとっては、確かにタリバンの政策は女性蔑視甚だしいということになります。
一方で、アフガンの人口の9割は自給自足の生活だといいます。その人達にとってはジェンダーよりまず食べ物です。若い男達の場合は食べられないから出稼ぎに行き、そこで武装勢力に「就職」したりするのです。では武装勢力はどうやって金を得ているのでしょう。こうなってくると、もう私の情報キャパを越えるのでこれくらいにしておきます。
「日本から来た医者が用水路を作ってるらしい」と噂を聞きつけて、出稼ぎに出ていた男たちが帰ってきます、「郷に仕事があるらしいぞ」と。ちゃんと食えたら若者が武装組織に入ることはなくなる。もともとは干ばつで農業ができなくなったのが原因です。用水路で農業が復活すれば食料を得て、8割がたの病気もなくなるのです。
アフガニスタンというと「タリバン」「アルカイダ」「武装勢力」といった言葉が一番に浮かんできてしまうのは、ニュースと映画「ランボー」のイメージのせいでしょうか。私も 9.11 の直後は「テロとの戦い」は正当化されると思い込んでいました。しかし中村哲さんの活動とは、そういった「善と悪」の二元論とは全く別のところにあります。だからこそ外国人にとっては危険極まりない国で35年も活動してこれたのです。それだけに最後は残念でしかたがありませんし、「惜しい人を失くした」とはまさにこのことです。
谷津賢二監督が舞台挨拶で、「中村哲と言う人は撮影者泣かせだ。カメラが回っていてもなかなか笑顔をくれないし、全く饒舌でもない」との旨おっしゃっていましたが、本編中、哲さんが朴訥と発する言葉や、字幕で提示される著作からの引用は至極です。寡黙な人の言葉ほど重い好例でしょう。
その中で私が一番心打たれたのは、「人間は所詮、自然からの僅かなおこぼれにあずかりほんの少しの間生かされているに過ぎない。何でもコントロールできると思うことは間違いだ」という場面です。自然観としては言い尽くされた内容です。
しかし晢さんは、過酷な自然と社会の不条理に翻弄されながら辛うじて命を繋ぐ人々と医療の現場で接し、無念の死も数多く看取って来られています。しかもご自身も息子さんを10歳で亡くしています。そんな中、自然というものは非情で、ある時、汗と血の結晶である用水路を洪水が破壊します。(砂漠地帯に本当に稀な洪水でした)そうした数々の経験から発せられる言葉なのです。
全編を通してひしひしと伝わることは、「争いへの道は容易く、平和への道はかくも険しい」ということです。この映画ではその険しさを目の当たりにして目眩がすると同時に私は、中村哲という人がいたんだという希望のかけらを握って映画館を出ました。
しかし一方で「わざわざ金出してそんな重たい映画観たくねーよ」とか「別に日本、平和ですけど?」という人が世間の多数派であることは私も理解していますし、それがこのような作品がミニシアターでしか上映されない所以です。それでもこの駄文を読んで僅か一人でもこの映画を観る人がいたなら「一隅を照らす」ことになるでしょうか?
なんか思いつくままに、まとまりなく書いてしまいました。全然伝わらないだろうなと書いていて思いました。ですので是非映画を観てください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。