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勝手に書評|自然という幻想

エマ・マリス著(2011)、岸由二・小宮繁訳(2018/2021)『自然という幻想』草思社文庫

 著者であるエマ・マリスはアメリカ・オレゴン州を拠点とするサイエンス・ライターであり、自然や環境思想に関していくつもの著作がある。本書は2011に書かれたものであり、彼女の代表作とも言える。本文中では、彼女が巡った世界中の自然保護の事例が次々と紹介されるとともに、生態学を中心に様々な論文が引用される。さらに環境思想の変遷の歴史が紐解かれることによって、私たちが持つ自然に対する価値観や美意識が一種のステレオタイプであることに気付かされる。自分の価値観に自問自答しながら読みすすめていかざるを得ない、そういう本だ。

手つかずの自然という幻想

 本書のキーワードとなっているのが、ウィルダネス(wilderness)だ。これは自然の中でも、更にピュアなもの、手つかずの自然(prestine nature)として描写される。近代以降、アメリカにおける環境保護運動では、この手つかずの自然を残すことが重大な命題として目指されてきた。しかし、著者はこれに対して疑問を投げかける。手つかずの自然とは、一体どの時点における自然なのだろうか、と。多くの自然保護運動では、ある過去の時点を基準点として定め、その自然を守ろうとする。しかし、その時点が本当に手つかずの自然なのだろうか。例えば、オーストラリアの自然保護区では、最初の入植者であるクック船長が到着した1770年頃の時点を基準点として定め、その時点にまで自然を回復しようと努めている。しかし、1770年の時点でも既にアボリジニの人々によって4万年以上自然に手が加えられている。別の例を挙げると、アメリカの自然保護運動では、コロンブス到着以前の自然を手つかずの自然という崇高なものとして捉えてきたが、実際には先住民によって長い時間手が加えられ、その間に絶滅してしまった動物もいると考えられる。実際には、手つかずの自然とは環境保護運動の中で生まれたカルトであり幻想に過ぎないのである。そして、この幻想にとりつかれた人々を待ち受けるのは永遠に続く幻滅である。

外来種=悪という価値観

 最近テレビ番組の企画で、池の水を全部抜くというものを見た。水が抜かれた池の底に跳ねるたくさんの外来種の魚たちは生態系を乱す悪者として映し出される。こうした外来種=悪とする価値観に対しても、著者は疑問を投げかける。もちろん、外来種によって在来種が絶滅させられてしまったケースは世界中に多く存在する。しかし、一方で著者はその逆のケースについても指摘する。すなわち、外来種によって生存することができた種たちである。ここでは本書p199で述べられているロドリゲス島における事例を紹介したい。インド洋上の小島であるロドリゲス島では、1950年代から60年代にかけて島の森林伐採により、小鳥2種とフルーツコウモリ1種が絶滅の危機に陥った。そんな中、島では木材生産と浸食防止を目的に、成長の早い外来種が植林された。そして、この成長の早い外来種によって小鳥とフルーツコウモリの生息域が回復し、この種は絶滅の危機から脱することができたという。

 このように、外来種は必ずしも悪い結果をもたらすだけではない。さらに言えば、現在在来種と思われている種たちの中には、元々外来種だった種も少なくないことも指摘されている。また、絶滅の危機に瀕する種を別の場所に移転管理して生存させるケースや、絶滅してしまった種の代わりに代替種を導入するケースなども存在する。日本では絶滅したトキを再び生息させるために、厳密には外来種とは異なる(らしい)が、中国産のトキを導入した事例が有名である。こうした事例について思いを巡らせると、近年叫ばれている生物多様性とは何だろうと考えずにはいられない。

ごちゃまぜの庭で

 生態系にまつわる様々な事例から分かることは、土地が異なれば、目指すべき方向性も異なってくるということだ。残念ながら、どの土地でも通用するような一般解は存在しないというのが本書の結論だ。しかし、本書の最終章では、「昔に戻す」以外の解決策として、10個の目標が提示されている。これを足がかりとして、自分たちに関係する自然についてもう一度考え直すことはできそうだ。

(アメリカで)「自然」というと、ドキュメンタリー番組で写し出されるような派手な自然が思い浮かべられる。しかし、実際には自分の家の庭や道路の舗装されていない路肩にも自然は広がっている。ある側面では自然の作用を受け、ある側面では人間の手が加えられる。現代においては、こうした手つかずの自然ではない、ハイブリッドな自然も美しいと思えるような美的感覚が求められているのかもしれない。完全に整えられた庭でもなく、かといって完全に放置された手つかずの庭でもなく、これらの態度が入り交じる、ごちゃまぜな庭にこそ希望はあるのではないだろうか。総体として見てみれば、地球もこうしたごちゃまぜな庭なのだろう。答えはいくつもあるのだから間違うことを恐れずに、身近な自然から向き合ってみるのも悪くはないかもしれない。

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