勝手に書評|希望のつくり方
玄田有史(2010)『希望のつくり方』岩波新書
本書は、東京大学社会科学研究所で2005年から行われている「希望学」プロジェクトの成果が元になっている。(「希望学」プロジェクトについてはこちら)著者であり経済学者の玄田有史さん(1964〜)は、この「希望学」プロジェクトのリーダーである。「希望学」プロジェクトの成果としては、『希望学1〜4』(東京大学出版会)などが挙げられるが、本書はそれらを一般向けに書き直したものだといえる。
「希望を持つ」とはどういうことか
「希望」という言葉を聞いて、どんなことをイメージするだろうか。私はなんとなく明るくてポジティブで、どこかから光が指すようなそういうイメージを思い浮かべる。本書では、この希望がどういう側面から成り立っているのかを考察している。
まず、希望の持つ一つ目の側面は「可能性」だ。人生にはいくつもの困難があり、それらを変化させていきたいと考えるときに、希望は現れる。希望とは、そういう先が分からないときに、何かの実現を目指して模索するプロセスそのものなのだという。
これに関しては、宮崎広和さんの「希望としての方法」という考え方でより深堀りされている。彼は、希望について初めて哲学的に分析したドイツの哲学者エルンスト・ブロッホを援用しながら、希望とは過去や現在の知識を未来へと方向転換させる方法そのものであると提唱している。(宮崎広和『希望という方法』→書評はこちら)
二つ目の側面は「関係性」だ。ここでいう関係性とは、人と人との関係の網の目である社会によるものである。本書では、アンケート調査による統計を元に、人々が希望を持つことに対して、社会がどのように影響を与えているかを明らかにしている。例えば、職場以外の友人が多い方が人は希望を持つ傾向があるといったことが紹介されている。希望とは個人だけでなく、人との繋がりや、あるいは社会に対して自分がどのような立ち位置にいるかなどによっても左右されてしまうという訳だ。
物語にすることで希望を紡ぐ
三つ目の側面は「物語性」だ。物語性とはどういうことだろうか。例えば、小さい頃に持っていた「将来の夢」を大人になって本当に実現できた人はどのくらいいるだろうか?本書のアンケート調査では、そういう人たちは1割に満たない。それ以外の人は、子どもの頃に希望していた職業とは違う職業に就いている。
では、そういう人たちは希望を失ってしまったのかといえば、そうではない。みんな現実を知ってしまったり、挫折を味わったりしている。でも、その都度、希望を修正しているのだ。10歳の頃の夢が叶わなかったからといって、20歳の時に夢がないとは限らない。人それぞれ、夢の実現や挫折の繰り返しの物語の中で、希望を修正したり新たに見出したりしているのだ。希望とは絶対的で固定的なものではなく、むしろ時に揺れ動き、失ったり見つけたりしながら、人生の中で物語として紡がれていくものなのである。
希望は持っても持たなくてもいい
正直に話せば、本書は少し話が固い気がした。度々ユーモアの重要性が強調されるのだが、そもそも、ユーモアが必要だなんて言っている時点でユーモアがないというか、そういう感じがする。もちろん、読んでいて嫌な感じはしないし退屈はしないのだけど、個人的にはあまり心に刺さらなかったというのが正直な感想だ。理論的な本であって、実践的な本ではない、というのが読み終えた時の第一印象だ。(もちろん、読み方は人それぞれだし興味関心も違うから、あくまで今の自分にとっては、という話である。)
ただ一方で、普段漠然と思っていたことが、データなどを通して示されるので、やっぱり日本という国全体としてはこういう傾向があるんだ、とかそういうことが分かり納得させられる本でもある。その点はやっぱり、希望学という「希望と社会の関係を考察するための学問」が根底にあるんだろうなあという感じがする。
本書を通じて、希望というものが分解され、分析されていく。その過程で希望の持つ様々な側面が明かされていくのだが、そのどのプロセスよりも、私には最後の結論が一番しっくりきた。結局、希望はあってもなくても生きてはいける。どんなに絶望した時でも、水を飲んでご飯さえ食べていれば生きてはいける。でも、希望を持つとなんだか楽しくいられる。
完全に効率化された社会では、希望を持っていても持っていなくても、決められた仕事をしていれば「効率的」に生きられるはずだ。どんな心理状態でもマニュアルさえこなせば、生産性は担保される。しかし、それでも希望というのは人生を豊かにしてくれると思う。妄想をすることは楽しいし、希望があるおかげで過去に嫌だったことも忘れられる。
それは、著者が言うような「遊び」に似ているのかもしれない。効率化社会では無駄だと思われることも、そのおかげで自分の知らない間に物事が前に進んだり急転したりすることがある。その過程の中で、段々と希望を見いだせる、そんな気がするのだ。そう考えれば、無理に今すぐ希望を持つ必要はない。今は無駄なことに思えるかもしれないことだって、いつかは希望を持つことの一助になるかもしれないのだから。
私たちは、希望などなかったとしても、生きていくことはできます。その意味で、希望は社会生活のなかでどうしても不可欠なものでは、ないのかもしれません。・・・・・・希望は、意味のない「遊び」に属するものでしかないのかもしれません。・・・・・・遊びとは、まえもって単一の価値や意味を決めておくことをあえてせずに、余裕を持って大切に残された部分です。遊びそれ自体は無駄に思えるかもしれませんが、遊びがあってはじめて偶発的な出会いや発見が生まれます。遊びのある社会こそ、創造性は生まれますし、希望もつくりだせるのです。(p.207)