勝手に書評|セルフビルドの世界
石山修武文, 中里和人写真(2017)『セルフビルドの世界 家やまちは自分で作る』筑摩書房(ちくま文庫)
建築家・石山修武
石山修武(1944〜)は、日本を代表する建築家の一人である。彼の代表作は、なんと言っても31歳の時に建てた「幻庵」(1975年)だろう。まずは、「石山修武 幻庵」とググってその写真を見てほしい。とにかく特徴的な形態をしている。どこかの先住民族のトーテムを想起させるような、そういう出で立ちである。それでいて、内部は、少し宗教性のある、神秘的な空間が広がっている。と言っても、私は実際に行ったことはないので、ここで述べているのは、あくまで写真を見たイメージであり、半分は口からでまかせだ。どうにかして行ってみたいものである。今年のクリスマスプレゼントは幻庵の見学券を下さい、サンタさん。
実はこの幻庵、本書でも登場する川合健二邸に影響を受けているという。写真を見れば、ドラム缶が寝転んだような形は確かに共通している。しかし、一方で全く別物に見えなくもない。川合邸が近代産業の合理性を発揮したような形態であるのに対して、石山の幻庵は、どこかそういう大きな潮流とは逸れたような場所にいる気がする。(もちろん川合邸も本流に乗っかっている訳ではないことは、日本の住宅地を見渡せば一目瞭然だが。)そして、その「大きな潮流から逸れた」ものこそ、本書で紹介されているセルフビルド群たちなのだと思う。それでは、彼らはどのようにして自らの道を歩むことになったのか。そのエネルギーとは何だったのか。本書ではそういった事柄が、直接ではないものの、示されている。その答えは一通りではない。人によって登りたい山が異なるように、そして登り方も異なるように、セルフビルドの山々もまた、人によって向き合い方が異なるのである。
自己表現のガイドブック
石山は本書を「自己表現のガイドブック」(p.17)だと言う。確かに、これから何かをセルフビルドしたいと思う人にとって、これほど参考になるものはないかもしれない。参考になってしまうが故に、自分で考えて作りたい人にとっては、少し悔しい思いがするかもしれない。ガイドブックであるから、どこから読んでも面白いのだが、ここではガイドのガイドよろしく、章ごとにちょっとしたレビューをつけてみたい。
第1章 世界から隠れる家:世界でいちばん小さな家/松浦武四郎の一畳敷(泰山荘)/磯崎新の隠れ家/川合邸
世界から隠れる場所、束の間の安らぎを求めて作られた小屋が第1章で紹介される。世界、というのは、現実社会なのかもしれないし、グローバリゼーションの波かもしれないし、本人によって様々だろう。いずれにせよ、小屋にはちゃんと世界から身をひっそりと隠すための装置が備わっている。それは内部への入り方に始まり、室内の覆われ方や区切られ方など、小屋によっていろいろだ。外から見ると不格好な感じがしても、内観を見ると、なんだか本人にとっては居心地が良いのだろうなということを感じさせる、そういう空間だ。
第2章 深いノスタルジー:バー・トタン/神長官守矢史料館
セルフビルドの美的感覚、とでも言えばよいのだろうか。本人としては、自らの価値観で作っているつもりが、それがある域を超えると、多くの人の共通の美的感覚に突き刺さることがあるようだ。その美的感覚を言語化することは難しいが、一つ言い当てるとすれば、只者ではない感じだろうか。ただの小屋でもなく、かといってよく練られた計画に基づく建物でもないような、そういう不思議な感じがする。全体としては野暮ったい感じなのに、近くによって見るととても丁寧な仕事をしている。その天性のバランス感覚あるいはこだわり、執念の賜物が、建築を一つ異なる次元に押しやっているのかもしれない。
「セルフビルドがいきなりアートになってしまうことがある。作った本人が意識しないままに日常のある一線を越えてしまうのだ。」(p.65)
第3章 家の価格破壊 オープンテックヴィジョン:オープン・テクノロジー・ハウス/掩体壕/開拓者の家/世田谷村/雪原のスノーボート/500万ハウス/完全0ハウス
現代においては、家作りというのもまた、ブラックボックスと化している。多くの人にとって家は買うもの、あるいは借りるものであり、それがどのように作られるのかはほとんど意識されない。しかし、第3章で紹介されている家は全て、住人たちが作り上げた、そして現在進行形で作っている家である。それは石山本人が設計した家に始まり、隅田川沿いのホームレスの家まで、見た目は種々雑多である。けれども、なんだか共通点があるようにも見える。建築の骨組みが見えたり、つぎはぎの感があったり、人の身体スケールにあった寸法だったり。それが必然なのか偶然なのかは分からないが、少し露骨で野性味のある佇まいは、自分の家を再考するきっかけを与えてくれる。
第4章 偏執狂世界 マニアが作り出す夢:秘密の庭園/モバイル電化ハウス/ワビ、サビ、コンテナ飲み屋/サーファーの家/キジセンター/貝がら公園/増殖するガレージ/セルフビルド・イン・ジャズ/恐竜ロボット
好きなことを好きなだけ、とことんやるための空間。第4章ではそんな空間が描かれている。正直言って、写真を見るだけでは、その奇天烈さしか伝わってこない。確かに、面白い。が、行ってみたいかと言われると首をかしげてしまう。しかし、好きだからといってここまでするのか、という謎のエネルギーを見てみたい気もする。おそらくそういう人たちにとっては、このガイドブックは不必要なのだろう。気づいた時には既に、そのことに取り組んでいるのだろうから。
第5章 海上の自由:船上にて/トンレサップ湖に浮く家
実は、この章に出てくるカンボジア・トンレサップ湖の水上集落には昔行ったことがある。大学1年生の頃に一人で東南アジアをふらふらしている時に、たまたま存在を知って訪れたのだった。広大な湖の上でボートで作った家を浮かべて、魚を撮ったり育てたりしている光景は、後からでも簡単に思い出せるほどに印象的なものだった。子どもが洗濯桶をボートにして、一人ぷかぷかと隣の家まで流されていく風景はとても可愛らしかった。そんな穏やかな風景が湖の上には広がっていたが、ここに住むようになった人たちの背景は決して穏やかなものではなかった。カンボジア人やベトナム人が混ざった彼らの中には、国内の混乱で住む場所を失い、やむを得ず湖の上で暮らしている人も少なくない。いわば、難民キャンプのような側面もあるのが、この水上集落なのである。少し話が逸れてしまったが、そういう複雑な事情がありつつも、やはり、水上集落の生活はなんだか楽しそうだった。たくさんの人が水の上で笑いながら談笑していて、湖の水自体は茶色く濁っているのだけど、生活空間は決して汚いものだとは感じなかった。不自由なようでいて、自由な生活。悪く言えばその日暮らしなのだけど、みんなが一日一日を楽しんでいるような、そういう豊かさ。それはきっと自分たちで家を作ったり居場所を作ったりする、その延長線上にあるのかもしれない。
「トンレサップの人たちはモノを多く所有するよりも、自由に動くことの方を選んだのだろう。」(p.224)
第6章 共同体への夢:マザー・テレサの「死を待つ人の家」/ひろしまハウスでレンガ積み/セルフビルドする町/山あげ祭
第6章では、「共同体の夢」と括られたセルフビルドが紹介される。これはある意味で儀礼的なセルフビルドなのだろう。セルフビルドという一つの出来事あるいは行事に身体を埋没させることによって、通常とは異なる世界との往来を可能にする、大げさに言えばそういう話だ。通常とは異なる世界とは、死の世界だったり、セルフビルドそのものによって作られた世界だったり、あるいはハレとケのハレの場だったりする。これは一人でたどり着くことの出来ない世界である。セルフビルドという行為、そしてそこに参加する人々の身体が一体となることによって生まれる世界であり、空間に居ること、建築をすることの深淵さが垣間見れる。もちろん、ここで紹介された写真と文章だけで、その空間のことを分かった気になってはいけない。一つ一つの事例の文章は決して長くないものの、要点や光景をほどよく押さえて読みやすく書かれているから、なんとなく分かった気になってしまう。でも実際には、空間に参加したものにしか分からない奥行きのある世界が広がっているのだろう。写真越しにその雰囲気に触れてしまうと、自らの足で現地に行ってその世界を覗いてみたくなってしまう。山のガイドブックを読んだからといって、その山道や山頂からの風景が体験できる訳ではないように、現地にしかない体験があるのだから。
セルフビルドから広がる世界
世界各地、本当に様々な場所でセルフビルドの世界は広がっている。セルフビルドのスケールも大小様々だ。こうしたセルフビルドについて、石山は以下のように語っている。
セルフビルドの考え方は現代の生産技術、流通市場そのものが作り出している巨大すぎる闇、ブラックボックスそのものから生み出される、それを開きたい、開明したいという意欲の必然の太い幹です。(p.18)
ここでいうブラックボックスとは、家の例を挙げれば、家が家として自分の前に現れる(最近では届くと言った方が正しいかもしれない)、その背景にあるプロセスのことだろう。加えて、そこに住んでからも、多くの部分が触れることのないブラックボックスになっている。例えば、水道管が割れた時、私たちはまず専門の業者を呼ぶ。自分では為す術がないからだ。こういう時、いかに家というものがブラックボックスになっているかということを痛感する。しかし、セルフビルドの家であれば、きっと水道管の破裂くらいは自分で直してしまうのだろう。私の知り合いの古い家でも、冬に水道管が破裂した時は、テープなどを持ってきて自分で直していた。そこには、他人の手に投げ出すことの出来ない人間の性のようなものがある。
しかし、よく考えてみれば、これは当たり前のことである。人類は誕生してからこの方、自らの家は自らで作り上げてきた。自分たちで作らなくなったのは、この100〜200年ほどではないだろうか。それまでは、大工が主導しながらも、住み手も一緒になって建設に参加したはずである。余談だが、昔は建設という言葉がなく、「普請」という言葉を使った。この言葉には、協働の意味が含まれている。普請と言えば、隣近所が集まって作るのが普通だった。協働の意味が含まれていない言葉に「作事」があるが、これは一般的な言葉ではなかった。つまり、家はみんなで作るのが当たり前だったのだ。
さて現代においては、家は注文さえすれば、知らぬ間に出来上がってしまうものである。まるで、みんなが寝静まった後にロボットが一斉に建設しているかのように。実際には、機械的にであれ、たくさんの人たちが動いて一つの建築を作っているが、普通に生活していればそういったことは意識されない。こういうブラックボックス化される世界に対して、それらを再び自分の手元に手繰り寄せようとするのが、セルフビルドの考え方なのだと石山は言う。それは必ずしも高尚なものではなく、身近にあるもので、ありあわせ持ち合わせの材料で行われることも少なくない。そうして人間の持つ野生的な思考の産物がセルフビルドなのである。これは何も建築に限った話だけではない。自分たちの食事や着るもの、仕事など、日常の様々な場面で言えることである。自分で作ることによって、広がる世界がある。それは本当の意味での豊かさなのではないだろうか。そういう可能性を、この本はちらっと見せてくれる。