連載「若し人のグルファ」武村賢親24
「腹違い、とか」
俺の言葉に、小糸はにっと微笑んだ。
「おしいわ。正解は種違い。父親が違うの。わたしたち」
わたしたちという言葉のうしろに、遥か彼方の異国の風が香った。それは小糸の身体に染みついたシーシャの煙が汗とともに匂い立っただけかもしれない。
「あの子、ちょっとズレていて、友達がいないの。だから仲良くしてやって。そういうの得意でしょう。あなた」
小糸の手が俺の手に重ねられる。ひんやりと冷たい、氷のような手。
これもまた、初めて目にする顔だった。挑発するような笑みはそのままに、しかし表情の端々から、母性にも似た温かさが滲み出ている。
自分の快楽を至上のものとし、不足を補うためならどんなものでも貪欲に呑み込もうとする煙の国の女王が、よもやこんな顔をするなんて。
堪らなくなって、席を立った。財布だけを引っ掴んで、逃げるようにフードカートの露店へと爪先を向ける。
動揺していた。この上なく、情けないほどに。
確証もなしに小糸の言葉を信じてはいけない。これまで頑なに守り抜いてきた自戒の念をさっぱり忘れてしまうほどに、小糸の見せた母性の片鱗は優しい温もりにあふれていた。
小洒落たホットドッグを売る露店になんとなく並びながら、「ガラスとクルミ」や夜の盛り場以外での小糸の様子を想像してみる。脳裏に焼きついたかと思われた先のイメージは、すでにはっきりと思い出せないほどに輪郭がぼやけてしまって、思い出そうとすればするほど浮かんでくるのはいつもの薄ら笑いばかりだった。
狐につままれるというのは、こういう気分のことを言うのだろう。目尻の吊り上がった店員に三人分の料金を支払う。
香ばしいソーセージの挟まったホットドッグを手に戻ってくると、テーブルから小糸の姿が消えていた。一緒に並べてあった紙袋もなくなっている。
まさか、と思って周囲を見回す。子ども連れの家族や数人のグループ、カップルばかりが目についた。どこにも背の高い異邦人と腕を組んで歩いている女の姿は認められない。
マティファの入っていったガーデニングショップをのぞく。
葉に厚みのある珍妙な形の植物を大量に陳列する腰丈ほどの棚を抜けた先で、会計を済ましたらしい小糸が新しく増えた紙袋をマティファに手渡していた。
無断で席を外したり、いつの間にか帰路についていたりすることは、小糸にはよくあることだった。胸を撫で下ろしながらテーブルへと戻る。
ショップから出てきたふたりは、たしかに姉妹のように見えなくもなかった。
体格も肌の色も違う。けれど顔のつくりはどことなく似ていて、隣り合って歩く互いの距離感や、顔を向ける仕草、表に出す表情のやわらかさは親しい間柄だからこそ見せられるものなのだろう。
「美味しそう。そういえば、お昼まだだったの」
俺がなにか言う前に、小糸は並べられたホットドッグのひとつを掴み上げた。
そういえば、小糸と夜の酒盛りをすることはあってもこうして太陽の出ている時間に食事をともにするということはこれまで一度もなったな。
今日は珍しいものばかり目にしている。きっとそういう日なのだろう。
しかし小糸はすぐに表情を曇らせて、心配そうにマティファを見やった。マティファもすこし眉をひそめてテーブルを見下ろしている。
「ねぇ。このソーセージだけど、鳥の? それとも豚?」
小糸がパンの端から飛び出たソーセージを指して問うてくる。上にかけるソースの種類は見ていたが、なんの肉が使われているのかは確認していない。
「アレルギーでもあるのか?」
そもそも肉にアレルギーがあるのか。もしアレルギーを持っているなら肉よりも先にパンの小麦を心配しそうなものだが。それともマティファは菜食主義なのだろうか。いや、それなら肉の種類なんて聞いてこないだろう。
質問の真意を図りかねていると、マティファの手がホットドッグを取り上げた。
「大丈夫です。もう違いますから」
そう言って、緊張したような面持ちでじっとパンに挟まれたソーセージの先端を見つめている。空いた方の手がなにかを探すように浮遊し、小糸がその手を捕まえた。
マティファは意を決したように二度うなずいてから、ソーセージにかぶりついた。
挽肉を包んでいた膜が破れて、弾けるように飛び散った肉汁が強い照り返しを受けて瞬く。目を瞑ったままあごを動かす彼女の鼻筋を伝って、一筋の涙が流れ落ちるさまを、俺は呆気にとられたまま見守っていた。
「美味しいですね。すごく」
どれくらいそうしていたのか。長い咀嚼を経て飲み下された挽肉とパンが鎖骨の間に沈んでいって、やっとマティファは瞼を開いた。その瞳は涙に潤んでシトリンのように輝いて見えた。
「頑張ったのね。偉いわ」
小糸はすっと背伸びをして、涙の澪を隠すようにマティファの鼻に接吻した。
正直、理解が追いつかない。たかだかホットドッグひとつでなんだ、この状況は。
大丈夫というのはアレルギーがもう大丈夫ということだろうか。それとも肉が嫌いで、俺の好意を無下にしないために我慢して食べたってことか。でも小糸は鳥か豚かって――。
あっ。わかった。マティファの言った「もう違いますから」の意味が。
「もしかして――」
けたたましい着信音に肩が跳ねた。昔の黒電話のベルを模した電子音が俺のポケットから響く。小糸はジェスチャーで応じるよう促し、マティファの手を引いて席を離れた。
電話に出ると、いま大丈夫でしたか、という桑原の溌溂とした声が鼓膜を叩いた。
「どうしたこんな時間に、お前まだ仕事中だろう」
『ここのところあまりにも暇で、早めに昼休憩もらっているんです。そんなことより、できましたよ。頼まれてたやつ。チェックしにきてもらってもいいですか』
できたというのは火曜に頼んだ小糸の予約管理システムの件か。
ガーデニングショップの方に目を向ける。
手をつないだまま亀の甲羅に似た植物を鑑賞していたふたりが、どちらともなく顔を寄せ合って、軽く触れるように唇を重ね合わせた瞬間を、俺は見逃さなかった。