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【短編小説】かけるもの、かけられるもの。
僕は、夕空ひかりを見ていた。
数時間ほど前、母が廊下に置いていった焼きそばを一本ずつ食べながら、僕は彼女の動画を見ていた。母の選んだサーモンピンクのカーテンから、夕日が差し込んでいる。午後五時とは思えない光の強さ。寒さと裏腹に、世界は春へと一歩前進していた。
彼女にはセーラー服が似合う。
そして彼女の目に射抜かれると、僕はその生々しさ、まぶしさに、ついうつ伏してしまうのだ。
月に一作品。
社会人だった頃に蓄えた積立貯金を、僕はひかりちゃんに投じている。
着々と買い集めた彼女の動画は、今月で十三本目となる。今の僕の唯一の楽しみ。それは、毎月一日に彼女の動画を買うことだった。
今日は三月一日。
セーラー服の動画を買った。
非常に良い。
何故、僕は今までこの動画を買おうと思わなかったのだろうか。
僕は、朝からずっとひかりちゃんを見ている。
彼女はいつだって僕を裏切らない。
デビューしたての頃の、あどけなさも良い。
成長した現在の、男を幾らでも手玉に取りそうな艶めかしさもまた良い。
どの作品を見ても、僕は興奮する。
もっと早く。
デビューの頃から応援していたかった。
午前中は、ヘッドフォンをつけ、臨場感を楽しんだ。
ママが出かける音を聞きつけてからは、イヤホンジャックを引き抜き、パソコンの音量をマックスにして楽しんだ。
焼きそばを食べていないことに気づいたのは、今し方のことだ。
「焼きそば、置いておくからね」
その言葉がリフレインしたのは、午後四時を回ったときだった。
我が家の焼きそばの食べ方はいささか変わっている。ママは、麺と肉野菜を炒めたものを平皿によそう。僕やパパは、それぞれの好みに合わせた調味料をかけて食べるのだ。
一年ほど座っていない食卓では、さらにテーブルの上に、目玉焼きや紅生姜、刻みネギ、あげ玉などが並ぶ。
全部かけて乗せると、案外と美味しいのだ。
廊下には、三種類のソースが置かれていた。
ブルドッグソース、中辛。
ピザソース。
マヨネーズは味の素。
付属として、『ほりにし』のスパイスが置かれてあった。
焼きそばには、申し訳程度のあげ玉が乗っていたが、僕はあげ玉があまり好きじゃない。
白いシャツからうっすらと透けて見えるものを見つめながら、僕は『ほりにし』をふりかけた麺を、指の腹で摘み、食べていた。
「見ないで、お願い」
彼女の訴えを聞きながら、また一本、麺を摘んだ。
ママが箸を置き忘れたからじゃない。
このほうが、より深く彼女を味わえると思ったからだった。
たわわな乳房が、大きく揺すぶられる。
食べたい、と思った瞬間、焼きそばは僕の目の前から消えていった。
スパイスだけがかかった焼きそばも、悪くはないのだ。
しかし、僕が今、痛烈に食べたいと思ったのは、乳房のような食べ物だった。
ほのかに揺れて、ツヤツヤと輝くもの。
ファミリーマートの鶏つくね棒が、脳裏に浮かびあがり、はかなく消えた。
次に、プッチンプリンが脳裏に浮かびあがった。やや、良い。むしろ捨てがたいが、僕の食べたいもの、舐めたいものはそれではなかった。
生々しいもの。
エッジが効いたもの。
少し、ピリッとするもの。
そのとき、僕はある欲求に思い至った。
そうだ、かけられるものだ。
まあるくて、生々しく、柔らかく、それでいてかけられるものだ、と思った。
だとすれば、あの食べ物しかない。
ある食べ物を想起した僕は、立ち上がった。
「ママ!」
ドアまで近づき、ドアノブを撫でた。そうだ、ママは外出中だった。いないのだ。
頼める人がいない。
ママ、そろそろ帰ってこないだろうか。
僕は、窓へと向かった。
ひかりちゃんを覗く同級生のように、カーテンの細い隙間から世界を見下ろした。
おばあさんが杖をついて、ゆっくりと歩いていた。
「あ!」
おばあさんは、たこ焼き屋の手提げ袋を手にしていた。真っ赤なタコの絵が描かれた、シンプルなデザイン。
いちから。
それは、駅前の老舗のたこ焼き屋の名前だった。
営業している。
ここから五分歩けば、僕は舐めたいものを買うことができる。
背後から、ひかりちゃんの声がした
「いって!」
もっと、いって!
僕は、今年になって初めて、プルダウンジャケットに袖を通した。
例えば、元旦に初詣に出かけるとき。誰しもが、生まれて初めて外を歩くような気持ちになるだろう。
静謐な空気。
頬を撫でる、凍てついた風。
今の僕は、まさにそれだった。
僕は決して、引きこもりではない。
友達ともラインをするし、たまにはクラウドワークスで仕事もする。
しかし、現実世界で挫折した。女上司のパワハラを、ひかりちゃんのように快楽をもって受け入れられるほど、僕は強くなかった。
一流大学を卒業しただけの、ただのニート。
今の僕は、まさにそれだ。
もちろん、転職活動はした。
ただ、卒業校が一流すぎて、逆に受け入れてもらえなかった。
「君の大学、奇人ばっかりなんだろう?」
僕は、何もかも間違えたのだ。
東大さえ出れば、どうにでもなると思っていた。
今は、大人向けのブログを日々更新し、アフィリエイトで小銭を稼いでいる。
月収一千円。
しかし、今の僕は充実していた。
大満足だ。
何故なら、ひかりちゃんのファンといつでも交流ができるのだから。
学歴なんて必要なかった。
「寒い」
風が強かった。夕方なのに、行き交う人がいないのは、きっと寒さと風のせいだと思った。
歩きながらスマホのロックを解除し、『ウェザーニュース』をタップする。
久しぶりに立ち上げたアプリから、アップデートを求められた。
「ワイファイのあるところで言ってくれよ」
スワイプで逃げ、さらに『ヤフー天気』をタップする。
アップデートを求められた。
「もう、帰りたい」
僕は、自分のブログをタップしていた。
決して自己満足のためではない。
ただ、操作を間違えたのだ。
本当は、同じ色をしたアイコンの『エックス』を開きたかった。先日一千人を超えたフォロワーたちに、
「ねえ、天気予報っていつからあるん? くっそ寒いねんけど。藁」
そう呟きたかったのだ。
外出したよ、と言いたかった。
しかし、間違えて開いた僕のブログは閑散としていた。
僕のブログの住人たちは、夜にならないとバケモノになれないのだ。
ひかりに向かって、レッツ・シェイキン!
そろそろ、このブログのタイトルもどうにかしたい。
駅前に近づいていた。
たこ焼き屋は、居酒屋『風来坊』を通り過ぎ、道路を渡ったところにあった。
駅前のバスロータリーの一角。
その風景が見えるとともに、懐かしい音楽が、スピーカー越しにくぐもり、流れてきた。
ニ長調というやつだろうか。
おそらく、高度成長期に制作されたであろう、それっぽいBGMが、ロータリーの端にあるからくり人形の動きに合わせ、高らかに鳴っていた。毎時零分になると流れる、あまり必要性を感じない音楽。しかし、仕事を辞めてから耳にするのは初めてのことだった。
何故か、胸が高鳴った。
世界だ、と思った。
たこ焼き屋の前には客がいなかった。
初めて見るその光景に、僕は息を呑んだ。
いつ行っても、まるで新型アイフォーンの発売日のように、長蛇の列ができていたのに。
どうしてしまったのだろう。
「営業、終わった?」
だとすれば、僕のこの欲求はどこへ持っていけばいいのだろう。隣のファミリーマートだろうか。
背筋に小蝿が湧くような感覚を覚えながら、そろそろと覗き込んだ。
たくさんのたこ焼き予備軍が湯気を立て、僕を出迎えてくれた。
「いらっしゃい。何にする?」
ああ、このおばさん、超懐かしい。
数年前に来たときと同じエプロンをかぶっている。茶色の、くまのプーさんのエプロンだ。
「あ、えっと」
僕は一旦身を引いて、お店の看板をチェックした。名物は塩マヨネーズだ。ソースは甘口、中辛、辛口。しばらく来なかったうちに、コリアンソースなんてものまであった。
コリアンソースって、なんだ?
「全部かけ、ってわけにはいかないですよね」
念の為、聞いてみた。
おばさんは笑顔を絶やさぬまま「そうですね」と言った。
「なんだい、あれか? ユーツーブ、ってやつに出したいのかい?」
年季の入ったおじさんの、言いたいことは分かった。「いえ、違うんです。迷っちゃって」そう言いながらも、僕は『ユーツーバー』になれるのでは、と思った。
「じゃあ、中辛を八個ください。マヨネーズトッピングで」
少し、ピリッとするもの。
かけられるもの。
「はいよ」
目の前で、たこ焼き予備軍がクルクルと回り始めた。
僕は、路地裏へ逃げ込もうとした。しかし、どうにも迂闊だった。
午後五時台の駅前に、逃げ場などなかったのだ。
家に持ち帰りたくない。
それよりも何よりも、温かなたこ焼きをつるんと舐めたいのだ。
僕は彷徨した。その間に、キャメルを二本も吸ってしまった。ママからもらうお小遣いは月五千円なのだ。そんなに吸っていては、後がなくなる。
十分ほど歩いて、手頃な場所を見つけた。
それは地下鉄の車庫の、フェンスの前だった。目の前には地下鉄の営業所らしき建物があって、その先は行き止まりだった。
ここなら誰も見ないだろう。
僕はしゃがみ込み、手提げ袋を、白いTシャツのように捲りあげた。
白いプラスチック容器に、『8中』とマジックで書かれていた。
僕はさながら、中学のヤンキーのようだった。
割り箸は要らない。
手提げ袋の中に残したまま、僕は『8中』を取り出した。
鼻先を容器の隙間につけると、ぷん、と甘辛い匂いが僕の欲求に応えてくれた。
そうだ。
それでいい。
僕は、輪ゴムをパンティのように取り外した。
それでも自動的に開かない容器を、優しい手つきでこじ開ける。
八個の乳房が、そこに露わとなった。
「おばあちゃんだ」
僕は、笑った。
ふんわり、柔らかくて、まあるいもの。
かけられるもの。
しかし、ソースとマヨネーズがビシャビシャにかかった乳房は、どれもしわしわになっていた。
経年劣化だ。
老いたひかりちゃんの乳房がそこにはあった。
でも、あったかい。
僕は、笑いながらも容器に顔を埋め、その感触を舌先で味わった。
まず、鰹節を全力で感じた。
彼女に乗せられた鰹節は、まるで真っ白なTシャツのようだった。
彼女の肉体を透けさせる。
しかし、決して僕に触れさせようとしない。
なんて、エロティックなアイテムなのだろう。
僕は、鰹節を指先で掻き分け、中へと入っていった。
つるりと舐める。
少し辛くて、でこぼこで、甘い。
ほんの少し舌先を尖らせると、乳房は破れ、マグマの熱が咽頭にまで伝わり、ふわりとした生地が舌を這い、やがてタコの足がぷるんと躍り出た。
喘ぎ声を抑えなくては。
僕は、猫舌のふりをしてタコにむさぼりついた。
唇が焼ける。
しかし、なんて甘くて硬いのだろう。
たこ焼きは、老いてもひかりちゃんそのものだった。
むしろ、これはこれで、とても新しいのではないだろうか。
車庫へと戻る、地下鉄車両の音が聞こえる。
多くの欲望を乗せた乗り物。
一人や二人は、ひかりちゃんの最新作を覗いたに違いない。
僕は、老いた乳房に歯を立てながら、スマホのロックを解除した。
グーグルの『G』のアイコンをタップし、シークレットモードに切り替える。
撮影助手、アダルトビデオ、募集。
タップ。
眼前に広がったのは、大いなる夢の入り口だった。