【連載小説】小五郎は逃げない 第19話
幾松の行方 2/3
「頼むきに縄をつかむぜよ」
以蔵は祈るように縄を握りしめた。すると縄を介してすごい力で引っ張られ、危うく以蔵は欄干を飛び変えて川の中へ放り出されそうになった。以蔵は持てる力を振り絞って、片足で欄干を突っ撥ねるようにして、その引力に抗った。しかし、引力が強すぎて身動きが取れない。このままでは桂の息が持たないか、以蔵が川に引っ張り込まれて共倒れになる。そう思った以蔵は、縄を引っ張りながら少しずつ橋の袂へと移動し、岸へ降りるとすぐに縄を手繰り寄せた。濁流で何も見えず、縄だけが引っ張られているようだったが、その引力は木切れだけの重さではないことが感触でわかった。以蔵は桂の無事を祈り、無我夢中で縄を引き寄せた。やがて濁流の中から大男の姿が見え始め、以蔵は身の危険も顧みず、川の中へ飛び込み桂の着物をつかんで岸へ引っ張り上げた。この時、意識が朦朧としていた桂は、以蔵が命懸けで救助してくれたことを覚えていなかった。
「あなたは池田屋の襲撃から、私をずっと見張っていたと言うことなのか。なぜ黙っていた」
「いやいや、黙っちゅうつもりはなかったがやけんど、何ていうか、言いそびれてしもうて・・・。まぁ、高杉はんとの約束やったし・・・。すなまかったぜよ」
「いや、誤る必要はない。むしろ礼を言う。お陰で命拾いをした」
「わしが言うのはおかしいんやけんど、拾った命やきに、無駄にしゃーせんと、おまさんの使命を全うしとおせ。女のことはなかったもんと思うて、悪ぃことは言わんきに、このまま長州へ一旦帰るがぜよ。おまさんにもしものことがあったら、高杉はんに顔向けができやーせんきに」
「お気持ちはありがたくいただいた。しかし、私を命がけで守ってくれた女を見捨てて、生き長らえたとして、そんな私に何の大義を成すことができようか。私はあなたが何を言おうと新選組の屯戸へ行く。あなたには世話になった。この恩は生涯忘れない」
「馬鹿につける薬はないっちゅうが、おまさんみたいなやつのためにあるような言葉ぜよ。ならば、わしも一緒に行くがぜよ。けんど約束じゃき。生きるがぜよ。生き延びておまさんの使命を全うするがぜよ。それをようせんって言うなら、今ここでわしがおまさんを斬るぜよ」
「あなたに言われるまでもない」
常に仏頂面の桂が、片頬で微笑んだ。
夜明けと共に二人は動き出した。
「ええかえ、今日は様子を見に行くだけぜよ。くれぐれも余計なことをしゃーせんように頼むきに」
以蔵はどんなことがあっても戦闘をしないように、桂に釘を刺した。
二人の後を寅之助が付いてくる。寅之助は、桂と出会った日から、殊の外、桂に懐いてしまい、それまで食事の時以外の時間は、どこかに行ってしまっていたのだが、桂が四条大橋の下にいるようになってからは、いつも桂といっしょにいる。桂がどこかに行こうとすると、その都度その後を付いてくる。用を足しに行こうとしても付いてくるので、桂が追い払うとその場に座り込んで、桂が戻って来るのを待っている。今まで以蔵以外の人に懐こうとしなかった寅之助を知る以蔵にとっては、意外なことだった。
「トラがわし以外の人に懐くなんて始めた見たぜよ。きっと小五郎は動物に好かれる人なんやき」
そう言って以蔵が桂をからかうから、桂は迷惑そうにしていた。
二人は薄汚い恰好で頬被りをし、乞食に成りすまして、四条通りを西へと歩いた。桂は丸腰だったが、以蔵は自分の日本刀を藁でぐるぐる巻きにして脇に抱え、自分の寝床を運んでいるふりをした。まだ夜が明けて間もないのに、桂の捜索隊らしき一団が通り過ぎて行った。その中の一人は以蔵が池田屋で見た顔だった。以蔵は目をそらしてその場をやり過ごした。それは近藤の指示を受けて捜索を再開した沖田総司だった。
「朝からご苦労なことやき」
以蔵は幕府側の執拗さに呆れたように、桂に言った。
四条大橋から新選組の屯所まで、約二・五キロメートルを二人は怪しまれないようにのろのろと一時間ほどかけて歩き、目的地が目の前に見えてきた。
「ここから先は、地獄の入り口みたいなもんやき。わしが様子を伺って来ゆうから、顔が知られちゅうおまさんはここで待っとおせ」
以蔵はそう言うと、藁で包んだ刀を桂に預けて、桂と寅之助を残し、一人屯所の入口へと近づいて行った。
そのころ、一番隊を引き連れた沖田は、近藤から言われたように、鴨川沿いに人気のない場所を探して歩いていたが、河川敷や沿道が広がっているだけで、どこをどう見ても見渡せるような場所しかない。
「鴨川沿いに人気のない場所など、どこにもない。ひょっとしたら川の中で殺したんじゃないのか」
沖田は投げやりな気持ちになりながら三条大橋を渡ろうとした時、橋の下から子供の声が聞こえた。橋の袂に引き返して、橋の下を覗いてみると、数人の子供が魚釣りをしていて、魚が釣れたと騒いでいた。
「橋の下か、ここなら目立たない。なまじ川に近すぎて気が付かなかった」
沖田たちは三条大橋の下に押し寄せるように降りて行ったので、釣りをしていた子供たちは恐れをなし、釣った魚を放り出して逃げて行った。沖田たちは血痕などの手がかりが残っていないか、隈なく辺りを調べたが何も見つからなかった。対岸の橋の下に行ってみたが、やはり何もなかった。
「おまえら他の橋の下も調べるぞ」
沖田は一番隊隊士を引き連れて、四条大橋へと向かった。四条大橋の下に行ってみると、むしろが敷かれていて乞食でも住んでいるかのようだが、人の気配がなかった。むしろをめくってみたが何もない。辺りには何かの食料を包んでいた竹の皮と数本の縄が散乱していた。沖田は乞食が物を盗んできては、ここで食べていたのだろうと推測した。
「ここも空振りか」
沖田は独り言ちた。いつもなら以蔵たちは日中の間、隠れるようにしてこの橋の下から出ようとしなかったのに、偶然にも沖田の捜索が入った時に、二人とも外に出ていた。以蔵たちにとっては、全く運が良かったとしか言いようがなかった。
以蔵は屯所の前を通り過ぎては戻り、それを何度か繰り返した。まだ、朝が早いせいか、屯所に目立った動きはない。裏手に回ってみたが、人の声すら聞こえない。桂と寅之助は少し離れた場所から物陰に隠れて以蔵の様子を伺っていた。以蔵は何も手掛かりが得られないので、一旦桂が待つ場所へ戻ろうと、屯所の前を通り過ぎた時、以蔵は突然に背後からだれかに襟をつかまれた。以蔵が振り返ると、新選組三番隊隊長・斎藤一が以蔵の後ろ襟を左手でしっかりとつかんでいた。それに数人の新選組隊士もいた。以蔵は全身から異様な殺気を漂わしているこの男の名前こそ知らなったが、桂と斬り合いをしていた姿は鮮烈に覚えている。しかし、いつのまに以蔵の背後に忍び寄っていたのか。
「おまえ、先程から屯所の周りをうろついていたな。何の用だ」
斎藤は今にも抜刀して斬りかかりそうな様相である。しかし、以蔵は黙っている。
「実にまずい。以蔵殿が一言でもしゃべったら、土佐藩士と言うことがわかってしまう。池田屋に土佐藩士が何人かいたし、尊王攘夷派の武市殿は、幕府側から目を付けられている。以蔵殿の手配書は出回っていないが、土佐藩士と言うことがわかれば、ただでは済まない。このまま屯所に連れていかれて、拷問を受けて、人斬りだと自供すれば確実に殺される」
心の中でそうつぶやいた桂は、少しずつ以蔵の刀を包んでいる藁をほどき始めた。寅之助も空気を察したのか、以蔵の方を一心に見ながら低い姿勢を取り、戦闘態勢に入った。
「おい、おまえっ、口がきけんのかっ!」
斎藤が大声で怒鳴った。
「えらい・・・」
「はぁ、何て言った。聞こえん!」
「えらい、すんまへん。道に迷いましたんや。どこをどない行ったらええかもわからんようになりましてん。わし、そないに同じとこ歩てましたんかいな」
<続く……>
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