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ぼくだけの感覚、一人の共感だけでいいんだ

noteを始めて8ヶ月になった。
毎日のようにエッセイを書き続けてきた。
そろそろ書くことが尽きてきた感じだ。

以前は一日に五編くらいは書けていたのに、今は一編も書けない日がある。

なんとか絞り出そうとするが、出ないものはどうしようもない。

そこで考えてみた。
数ヶ月前はなぜあんなにすらすら書けていたのか。

確かにあの時は頭の中が空っぽだった。
見たこと、感じたことを何も考えずに文字にしていた。
感覚が目と心から指先に直結していた。

今はそれができていない。
なぜなんだろうか。

たぶん感覚が目と心から指先に行かずに、頭の中に行ってしまうからだろう。

ぼくの頭はせっかくの新鮮な感覚を、あーじゃない、こーじゃないと加工したがる。

どう加工すれば読者の皆様に喜んでいただけるだろうか・・・。

加工の仕方はわからない、と言うか加工の法則なんてない。
そんなものがあるなら、作家の方々はだれも苦労しない。

それをぼくなんかが空想しようとするから、当然ながら答えが見つからない。

全く無駄なプロセスだ。

それになぜだろうか、そうやって加工した作品にどうも満足感が得られない。

ぼくはいつの間にか悪循環のスパイラルに陥っていた。

もう一度数ヶ月までの感覚を取り戻してみよう。

空を見て感じることがある。
たかが空の話じゃないかとぼくの頭の中から声が聞こえる。
その声に耳を借してはいけない。

楽しそうに会話する母子を見て思い出すことがある。
ぼくの頭の中で、母子の会話や様子をもっと面白く加工しろとささやく声が聞こえる。
その声に耳を傾けてはいけない。

駅のホームで首を項垂れて立っている人を見て、詩を書きたくなる。
そんな暗そうな話にだれも関心を示さないから、"やめろ"と違うぼくが抑圧してくる。
自由な感覚を心の中に閉じ込めたままにしちゃいけない。

ぼくの作品を百人、いや千人の方が読んでくれたと想像してみる。
ほとんどの方が、ぼくの作品に関心を示すことはないだろう。

でも一人だけでも共感していただけたらそれでいいんだ。
0人と一人。
その間には天と地ほどの開きがある。

いつの間にか、多くの読者から評価を得ることに固執してしまっていた。
いつの間にか、大切なことを忘れてしまっていた。

たった一人でいい。
ぼくの、ぼくにしか感じえない感覚に共感していただけるなら・・・。
こんな幸せなことはない。

もうあれこれと迷うことはやめよう。
目と心の回路を指先に繋ぎ直した。

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