【連載小説】小五郎は逃げない 第35話
奪還 3/6
土手を駆け上がった沖田たちは、目下で右往左往している隊士たちの姿を見た。
「なんだ、桂などいないではないか。一体だれが嘘を言ったのだ」
斎藤が怪訝そうに言った。
「何がどうなっているのだ。だれかに担がれたのか。しかし、この河原にいたのは我々新選組の隊士だけだったはずだが・・・」
永倉も状況が全く飲み込めなかった。
「だれがおれたちを騙したのだ」
土手の上から斎藤が、隊士の一人に言った。
「わかりません。見慣れない隊士が突然叫びながら走りだしたので・・・。しかし、間違いなく隊服を着ていました」
隊士の一人が言った。
「見慣れない男、そいつが桂なのか、それとも桂に協力者でもいるのか・・・」
沖田が独り言のように言った時、寅之助の姿が見えないことに気付いた。以蔵も隊服を脱ぎ捨てて、とうにいなくなっていた。
沖田がふと河原の方に振り返って見ると、小舟に乗った幾松が岸から離れていく様子が見えた。その前に立ちはだかり、こちらを凝視する一人の武士がいた。その体からは、身震いするような覇気が漂っていた。沖田はこの覇気を知っている。数年前に近藤たちを叩きのめしたあの男に間違いない。
「桂小五郎、現れたか」
沖田は独り言ちると、土手を元いた方向に駆け下りた。しかし、桂はにやりと笑うと、沖田から遠ざかるように土手へと走り出した。
「そうやっていつも逃げるのかっ。桂っ!」
沖田は大声で叫ぶのだが、逃げる桂に迷いがない。あっという間に土手を駆け上がって行った。沖田はもう一度土手に駆け上がり、追跡を開始した。斎藤がそれに続く。
「桂はこっちだ。全員で追うぞ」
永倉は土手の下で右往左往していた隊士たちを呼び戻した。四十人近い新選組隊士たちは一斉に駆け出し、追跡を開始した。永倉はさらに数人の隊士に、船で逃走した幾松を追うように指示した。
桂は予定通り土手を駆け降りて、三条通に入った。沖田を筆頭に新選組隊士たちがその後を続く。しかし、先頭を走っていた沖田が、急に咳き込んで通りの真ん中で膝を突いてへたり込んでしまった。斎藤が駆け寄ってみると、息をするのも苦しそうだった。
「沖田さん、大丈夫ですか」
「斎藤、おれに構うな、やつを追え」
そう言って斎藤の方に顔を向けた沖田の口元が、血に染まっていた。持病の肺結核の発作だった。
「しかし、置いては行けませんよ」
そう言った斎藤の横を、隊士たちが駆け抜けていった。
「おれに構うな、自分の成すべきことをやれっ。おまえ、それでも新選組の隊長かぁ」
沖田は血を吐きながら声を絞り出した。
「わかりました。やつを捕えたら、すぐに戻ってきます」
そう言い残すと斎藤は走り出した。
鴨川の土手を降りて三条通を西走し、南北に走る烏丸通まで約一キロメートルある。以蔵の読み通り、隊士たちの中で走ることが苦手な者が遅れ始め、団子状態で走り出した隊士たちが、徐々に帯状になりつつあった。桂は烏丸通を左折して百メートルほど南下し、六角通を左折して東に走った。あと数百メートル走れば以蔵が待っている戦闘ポイントに辿り着く。これも以蔵の読み通り、重い日本刀を腰に下げたまま走っている新選組隊士たちの息が上がり始めた。隊列もほとんど一列横隊になってきている。それに比べて、木刀を持っている桂の足は軽快であった。
六角通を中程まで来た時、桂の前方に再び巨大な犬が現れた。戦闘態勢に入った土佐犬ほど、人を戦慄させる生物はいない。寅之助は猛然と桂の方に向かって走り出した。桂も速度を落とすことなく、寅之助に向かって一直線に走る。桂の陰に隠れて新選組隊士から、寅之助の姿が見えない。そして、両者が目の前に迫った瞬間に、寅之助が軌道を変え、桂の右足をかすめるようにしてかわし、隊士たちに向かって猛然と突っ込んでいった。隊士たちにしてみれば、目の前に獰猛な土佐犬が突然現れたように見えた。それもつい先程、仲間が数人、大怪我をさせられたばかりである。しかし、隊士たちも足を緩めない。寅之助に対する恐怖心を押し殺し、抜刀して突撃した。先頭を走る隊士の目前に寅之助が迫り、正面から日本刀で突きを繰り出そうとした瞬間に、寅之助は瞬時にその隊士の右横をすり抜け、その後方にいる隊士に向かって威嚇し始めた。
六人の隊士がそのまま桂を追跡し、その後方を走っていた隊士たちが、寅之助の威嚇により足止めされてしまった。六人の隊士は、逃げ続ける桂を追った。その桂が百メートル程走ったところで、急に足を止めて隊士たちの方に振り返った。すると、桂の陰から陽炎と共にもう一人の武士が姿を現した。それは、桂の到着を待ちわびていた以蔵だった。肩に木刀を担いでいる。しかし、その姿はいつもと違っていた。羽織、袴を身にまとい、凛とした武士の姿で、昨日までの乞食のような恰好とは打って変わっていた。髷も結っている。しかし、その目は変わらず獲物を狙う狼のようだった。三条河原で桂が出没したと、嘘の情報をふれ回って新選組を攪乱した後、寅之助と共に姿をくらました。予定していたポイントでまず寅之助を放ち、新選組を少人数になるように分断し、桂と共に追跡不能にすべく待ち受けていたのである。
桂と以蔵は、六人の隊士たちに取り囲まれた。しかし、二人から恐怖心と言うものは、全く感じられられない。
「よいか、殺してはならんぞ」
「何度も言わんでええぜよ。わかっちゅうーが。けんど、殺されるか殺されんかは、こいつら次第やき、小五郎」
桂は以蔵に念を押したが、以蔵が曖昧に答えるだけだった。後方では寅之助が、他の隊士の足止めをしてくれていたが、何人かの隊士が寅之助の横をすり抜けて、桂たちの方に走り出している。
「新選組を相手にして、二対六で、しかも木刀で勝てると思っているのか。随分と舐められたものだ」
一人の隊士が言った。六人の隊士は、自然と相手一人を三人で取り囲むような戦闘隊形を取った。まず、桂が最初に仕掛けた。凄まじい勢いで一人の隊士に正面から打ち込み、相手の隊士は、それを日本刀で受け止めた。木刀に刃が食い込んだが、構うことなく桂はその隊士を押し飛ばした。あまりの勢いに後ろ向きに倒れそうになったが、踏み留まったところに、すでに目前に迫っていた桂に木刀で右足のすねの骨を砕かれた。一瞬で勝敗がついた。他の隊士は呆気にとられたが、気を取り戻して、後ろを向いている桂に、上段から斬りかかった。振り向きざまに、桂は木刀で相手の剣を撥ね退けたが、木刀がざっくりと削られた。これも構うことなく、よろけた相手の手首に一刀を食らわせて、日本刀を叩き落とし、さらに右膝を砕いた。最後の隊士は、桂の木刀を狙ってきた。木刀をへし折るべく、正面から打ち込むと見せかけ鍔迫り合いに持ち込んだ。その隊士はそのまま木刀が折れるまで押し込もうとしたが、桂は全く動かない。まるで巨大な岩でも押しているかの如く、びくともしない。それどころか逆に押し返されて、後ろ手によろけたところを、一瞬ですねの骨を砕かれた。
<続く……>
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