【連載小説】小五郎は逃げない 第20話
幾松の行方 3/3
「んっ、きさまは上方の者か」
「そうでんねん。大坂で商人してましたんけどな、何や京でお侍はん同士でいさかいが多なったによって、物が売れんようになりましてな、今ではこの様ですわ。金ものうなって、親戚頼って京に来たんですわ。まあ生まれて初めて来たさかい、道がさっぱりわかりまへん。あちこちの家を探してましてん。」
以蔵はその場しのぎの嘘を並べ立てた。しかし、斎藤は黙って聞いているのかと思っていたが、静かに刀の鯉口を切った。
「まずい、斬られる」
以蔵は心の中でそうつぶやいたが、丸腰では戦えない。しかし、戦闘に慣れた体が臨戦態勢を取るべく勝手に反応しようとする。斎藤はそれを誘っている。以蔵は反応しようとする自分の身体を必死で抑えた。
「いつ上方からでてきた」
「へえ、昨日からですわ。昨日から何も食べとりまへん。もう腹ぺこぺこですわ」
斎藤は攘夷派に大坂の商売人が絡んでいるような話は聞いたことがなかった。事実、この当時、攘夷活動を行ったいたのは、長州藩、武市が率いる土佐藩の土佐勤王党が主だったメンバーだった。斎藤は以蔵を上方の人間だと信じ込んでしまい、以蔵に対する疑念を解いた。
「もうよい、立ち去れ。この辺りはうろうろしない方が良い」
「へえ、えらいすんまへんでした。ところで、お侍はんのお屋敷は、えらい立派でんなあ。こんな屋敷に住んでみたいもんですわ。お侍はんばっかり住んではったとしても、やっぱりおなごはんもおりますんやろな。いや、さっき、通りすがりに、ちらっと土間の中を見てしもた時に、おなごはんが履くような、かわいらしい履物が見えたような気がしたもんで・・・」
「きさまには関係ない。さっさと行けっ」
「へえ、ほな失礼します」
以蔵は腰をかがめながらその場を立ち去り、桂の元へ近づき、桂に「逃げろ」と目で合図した。桂は刀を藁で元通りに包み直し、寅之助の耳をつかんで、屯所と逆の方向に歩き出した。しばらく歩いていると、以蔵が桂たちに追いついた。
「そやき、言わぬこっちゃーないきに。危うく殺されるところだったぜよ」
「いやいや、本当に危ないところだった。しかし、なぜ以蔵殿は上方の言葉が話せるのだ。先に言ってくれればよかったものを。全く肝を冷やしたぞ」
桂は少し怒り気味に言った。
「何でわしが、怒られんといかんきに。それに以蔵でええきに。京に出て来て、しばらくして、おまさんと同じように芸者と仲良うなったきに。その女の家に転がり込んでた時があったがぜよ。その女がまっこと大坂の出身じゃって、そいつから大坂弁を教わったってことぜよ。まぁ、こげな時に役に立つとは、夢にも思いやーせんやったきに」
「しかし、あんな嘘が次から次へと、よく思いつくものだ」
「当たり前ぜよ。生まれてから、こうやって世の中渡ってきたがぜよ。まぁ、上士のお武家さん家でぬくぬくと育ったおまんには、わからせんきに」
「私は上士の家の出身ではない」
桂はむっとして返事をした。
「ところで小五郎、おまさんのおなごは間違いのうあの屯所におるがぜよ」
「なぜ、わかった」
「わしがかまをかけてやつらに聞いてみたぜよ。男所帯の新選組の屯所に女もんの履物がおいてあるってな。そしたらその男が一瞬やけんど屯所の間口の方を振り向きよったきに。普段から女なんかおらんなら、振り向きもしやーせんぜよ。振り向いたってことは、おまさんの女かどうかは保証できやーせんが、だれかおなごがおるってことぜよ」
「本当か」
「新選組の屯所の中におる女など限られちゅうが。まさか飯炊きのおばさんの履物のことを言われて、振り返ることもないきに。おまさんのおなごは、あそこにおると見てええがやき」
以蔵は自信あり気に言った
「幾松はまだ生きているのか」
桂は独り言のように言った。
「とりあえず一旦戻るぜよ。こんな場所に長居しちょったら、命がいくつあっても足らんぜよ」
二人は念のために四条大橋への帰路に人気のない路地を選んだ。しばらくして桂は、背中越しに人の気配を感じた。その気配はどんどん近づいてくる。しかも凄まじい殺気を放ち始めた。身の危険を感じて振り返った時には、黒頭巾を被った三人の侍風の男が、抜刀して間近に迫っていた。明らかに二人に襲い掛かろうとしている。桂は刀を持っていなかったが、それでも戦闘態勢に入ったその瞬間、強烈な力で横に押し出され、長屋の軒先へと突き飛ばされた。以蔵である。以蔵は三人の武士を前にして、振り向いて逃げる余裕がなく、正面から受けとめなければならなかった。刀を包んでいる藁を解いている時間もない。相手は正面から一人、左右から一人ずつ、全力で走り寄って来る。紙一重で正面の敵の一刀をかわした。しかし、右か左のどちらかに逃げたとしても、次の敵の攻撃はかわせない。絶対絶命の状況である。しかし、以蔵は平然としていた。以蔵の目は明らかに右から来る敵に向けられていた。これでは左そして真正面の敵からの一刀をまともに受けてしまう。
「逃げろっ!」
桂がそう叫びながら起き上がったが、間に合いそうにない。正面の敵の一刀が、以蔵の間近に迫った時、その敵は以蔵の目前から左方向へと姿を消した。寅之助の体当たりをまともに喰らって、すっ飛ばされたのだ。寅之助はさらに刀を持つ敵の右腕に、猛然と噛みついた。
「何しちゅうが、こん犬、放さんかえ!」
その男は激痛に耐えかねて左腕で寅之助を殴りつけたが、それでも放さない。その光景を見た敵が、ほんの一瞬躊躇した分だけ隙ができた。それを以蔵は見逃さない。右方向から迫る敵に、目に留まらぬ速さで突進し、藁で包んだ刀の鞘で敵のみぞおちを突いた。その敵はうめき声と共に地面にうずくまった。最後の敵が以蔵の後方から迫った。以蔵はまだ背中を見せたままである。以蔵の背中を斬り裂こうと敵が刀を振り上げた。しかし、その状態から微動だにしない。桂がその敵を背後から羽交い絞めにしていた。桂は素早く敵の右腕を両手でつかみ直すと、自分の背中越しに投げ飛ばした。一本背負いである。敵は背中から地面に叩きつけられ、うめき声を上げた。
「トラ、もうええきに」
以蔵がそう言うと、寅之助がやっと敵の右腕から顎を外した。血だらけになった右腕を抑えながら、刀を拾い上げた敵は無言のまま走り去った。その後を他の二人の敵も続いて逃げ去った。
「小五郎、おまさんは柔術も使うんかえ」
以蔵は何食わぬ顔で言った。
「それはどうでもよいが、以蔵殿、一人だけでも捕まえて、何者か確かめなくても良かったのか。明らかにあなたを狙っていたようだが・・・」
桂が言った。
「その必要はないきに。ありゃ、土佐の人間ぜよ」
「土佐藩の者か、以蔵殿の素性がばれていたのか」
「いやいや、そうやないがや。ありゃ土佐勤王党、武市先生とこのもんぜよ」
「何だと、あなたの仲間ではないか、そんな馬鹿な・・・」
寅之助に噛みつかれた刺客のわめき声で、敵は土佐の人間だと分かった。しかし、土佐藩士であれば、いきなり斬り殺さずに生け捕りにして以蔵に暗殺を命じ、背後にいる者を聞き出そうとするはずである。それに、土佐藩の役人が以蔵の正体を掴んでいるという情報は、まだ聞くに及んでいない。以蔵はまだ半信半疑ではあったが、以蔵の正体が世間にばれる前に、武市が以蔵の口封じを図ったことを悟った。
「そんな馬鹿なことがあっていいのか、同志ではないか」
桂は目を見開きながら言った。
「いつの時代も世の中そんなもんぜよ、小五郎。おまさんの知らんことがこじゃんとあるぜよ。わしはどうも用済みらしいきに。小五郎、すまんが今日からにぎり飯が食えんようになってしもたぜよ」
以蔵は笑いながら言った。しかし、暗殺者に身を落としてまで信じ続けた武市に、殺されようとした実感がふつふつと湧き上がってきた。以蔵は両膝を地面に落とし天を見上げた。いつもと変わらない夏の青空に雲が浮かんでいた。しばらくその雲を眺めていると、次第にぼやけて空と雲の境がわからなくなっていった。桂は成す術もなく、その場に立ちすくむしかなかった。
<続く……>
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