【連載小説】小五郎は逃げない 第44話
武士たちの選択 1/5
幾松は小舟を六条河原の岸に着けようと、必死に川の底を竹の棒で突いた。女性にとっては川の流れが速く、もたもたしていると目的地を大きく行き過ぎてしまう。しかし、なかなか思うように船が岸に近付かない。幾松は桂ともう一度会い、共に地の果てまで逃げる覚悟はできていた。桂は必ず来る。こんな所でもたついている訳にはいかない。自分にそう言い聞かせ、持てる力を振り絞った。
やっとのことで岸に辿り着き、船を岸に引っ張り上げるとしばらく船の影に隠れていた。しばらくすると、もう会えないと思っていた愛しい男の姿が土手の上に現れた。幾松は船の影から這い出し土手へと走った。二人は互いに駆け寄ると、桂は一目散に幾松にもとに駆け寄り、幾松の身体が折れるほどに抱きしめた。
「私のために辛い思いをさせてしまった。申し訳なかった。」
桂は声を絞り出すように言った。
「いえ、桂はんこそ命懸けでお助け下さって、ほんにありがとうごいます」
新選組の尋問にも顔色一つ変えなかった気の強い幾松が、泣いていた。
「おまさんら、お取込み中、失礼するけんど、追手が来ゆうきに、早いところ逃げるぜよ」
幾松が声の発せられた方を見ると、一匹の大きな犬を連れた見知らぬ男がいつの間にか立っていた。それは桂たちに背を向けて、周辺を伺っていた以蔵と寅之助だった。
「岡田以蔵殿だ。私の命も救ってくれた恩人だ。それに、おまえの救出も手伝ってくれた。おまえからも礼を言ってくれ」
桂が幾松に言った。
「岡田はんどすか。ほんにおおきに」
幾松は以蔵の背中に向かって言った。
「以蔵でええきに。急ぐぜよ」
背中越しに以蔵がかすかに微笑んだ。人に礼を言ってもらったのは、何年ぶりのことだろうか。思い出せない。しかし、何と心地良い気分なのだろうか。以蔵はそんなことを思っていた。
「新選組を相手に、ようここまで逃げて来れたのぉ」
いつの間にか、新選組局長・近藤勇が土手の上に立っていた。
「いつの間に・・・。気配を全く感じんかったぜよ。あいつが新選組の近藤かえ」
以蔵は池田屋で遠目に近藤の顔を見たことがあったが、念のために幾松に確認した。
「そうどす」
幾松は近藤を睨みつけながら言った。以蔵はただならぬ覇気を、近藤から感じ取っていた。
「こいつは危ないぜよ」
まともに戦えば、あの覇気に圧倒されてしまう。以蔵は足がすくむ思いがした。しかし、ここまで来て捕まる訳にはいかない。
「小五郎、あいつ一人なら、二人がかりで戦えば勝てるぜよ。やるかえ」
そう言って、以蔵は小舟の底から日本刀を二本取り出した。
「無論のこと。殺された仲間の弔いだ」
桂の目の色が変わった。
一本の真剣は、以蔵がもともと持っていたもの、もう一本の真剣は龍馬が桂のために調達してくれたものを、以蔵が船の底に隠していたのだ。桂と以蔵は、日本刀をすばやく腰に差した。
「桂、久しぶりだな。こんな再会になるとは思いも寄らんかった。まあ、せいぜい血迷った自分を恨むことだ」
近藤がそう言い終わると、土手のあちこちから新選組隊士が姿を現した。そして、あっという間に桂たちを取り囲んだ。副長の土方を始め、二番隊隊長・永倉新八、六番隊隊長・井上源三郎、八番隊隊長・藤堂平助、十番隊隊長・原田左之助といった強者も顔を揃えていた。逃げるためには土手を超えて行かなければならないが、数十人の隊士たちがびっしりと立ち並んでいて、逃走ルートは完全に塞がれていた。後ろは鴨川。船を使って逃げたとしても、船を川の中へ押し出している間に、たちまち取り押さえられてしまう。桂たちは完全に逃げ場を失った。
なぜ近藤たちは、桂たちが六条河原で落ち合うことを知っていたのか。知っていたのではなく、幾松が尾行されていたのである。三条河原で桂たちが幾松を船で逃がし、自分たちも逃走を図った後、山崎丞を筆頭とする新選組の諜報員が幾松の後を追っていたのだった。土方は桂が襲撃して来ないと判断して屯所に引き上げたが、万が一に備えて諜報員たちを残しておいた 土方が屯所への帰路の途中に桂による襲撃の知らせを聞いたのは、この諜報員からだった。諜報員は五名で編成されており、山崎が幾松を追跡しながら他の諜報員を連絡係として、土方と連絡を取り合っていた。山崎の誘導に従って、土方が率いていた別動隊は屯所に戻ることなく移動し、土方は近藤や他の隊士を引き連れて、この場所に集結したのであった。
「もう逃げ場はない。観念しろ」
土方が桂たちの方に歩み寄りながら、太々しく言った。
「幾松は逃がしてやってくれ」
桂が土方に言った。
「おまえは馬鹿か。おまえのような重罪人を匿ったその女の罪が許されるとでも思っているのか。その女はここで処刑する」
土方は冷酷に言った。桂は戦うしかないと覚悟し鯉口を切った時、寅之助が猛然と土方に向かって走り出した。凄まじい勢いのまま土方に接近し飛びかかった。土方は抜刀したまま寅之助の右横に体をかわすと、下段から寅之助の胴体をざっくりと斬り上げた。寅之助は前足で何事もなかったように着地したが、二、三歩ふらふらと歩いたかと思うと、地に伏せた。息はしているが、ほぼ胴体を真っ二つに割かれていた。
「トラぁぁぁぁー」
絶叫したのは、以蔵ではなく桂だった。
「きさまぁ、許さんぞぉぉぉぉぉ!」
桂の怒号が響き渡った。今度は桂が抜刀したまま猛然と土方に突進していった。目の前に数人の隊士が、桂の行く手を阻むべく立ち塞がったが、桂はかまうことなく走り続けた。隊士たちが抜刀し桂に向かって踏み込もうとした時、紫電一閃、黒い稲妻が桂の前を横切ったかと思うと、隊士たちは次々に倒れた。真剣を持った以蔵が、本領を発揮すれば、新選組の隊士と言ったところで手も足も出ない。この二人には、いつの間にか阿吽の呼吸ができていた。互いに言葉を交わさずとも、次の行動が読める。以蔵は土方を討とうする桂のために、道を切り開いた。
<続く……>
<前回のお話はこちら>
▼こちらを読んでいただくと途中からでも楽しめます!▼
▼強くてかわいい!以蔵の愛犬、寅之助の魅力はここにあり▼