短編小説「二度目の演奏会」
古いアップライトピアノは、石造りの家の隅で静かに時間を重ねていた。薄暗いランプの光の中、ピアノの木製のボディには細かなひび割れが走り、黄ばんだ鍵盤は長い間触れられていないことを物語っていた。この部屋にあるものすべてが、どこかくすんでいるように見えた。
窓の外には、冬枯れの木々が並ぶ石畳の路地が広がっている。ここは、北イタリアの小さな町。私はこの静かな町で、一人、音楽から捨てられた日々を送っていた。
ピアノの蓋を閉じたのは三年前のことだった。最後の演奏会のことを、私は忘れたくても忘れられない。舞台はミラノの小さなホールだった。照明の熱と観客の視線が私の背中に重くのしかかり、緊張に固まった指が鍵盤を滑った瞬間、響くはずの旋律は音を失い、ばらばらに砕けた。聴衆の沈黙は冷たく、私は音楽の才能を持たない人間であることを痛感した。
それ以来、私は楽譜にもピアノにも触れなかった。触れたくても、触れられなかった。あのときの光景は脳裏に刻み込まれ、思い出すだけでも息が詰まる。そっと音楽に蓋をした私は、トランク1つに荷物を詰め込み、逃げるようにしてこの小さな町に移り住んだ。音楽がなくなっても、美しく輝かしい自然に満ちたこの町であれば、穏やかな日常を送れるだろうと、そう信じて。
誰も私のことを知らないこの町での生活は、とても心落ち着くものだった。テレビを見ることもなく、ラジオを鳴らすこともない。何にも縛られず、誰の声も聞くことなく、ただ自由を謳歌する。けれど、胸の奥にはいつも大きな空洞のようなものがあった。生活はただ静かに流れていく。どれほど時間が経っても、その穴が埋まることはない。私は音楽に捨てられたのではない。そこに向き合うだけの強さと、覚悟がなかっただけだ。ゆっくりと時が過ぎていく中で、その事実が深く、私の心を突き刺していた。それでも未だ向き合うことのできない自分が情けなく、虚しく、どこまでも悔しかった。
そんな私の元に、一通の手紙が届いたのは、昨日のことだった。
───君のピアノの音を、もう一度聴きたい。
僕も、最後の演奏をしたいと思っている。君と一緒に。
送り主の名前を見て、私は息をのんだ。ジュリアーノ。私の大学時代の同期であり、一流のヴァイオリニスト。人生で初めて音楽の美しさを教えてくれた人だ。
───杖をついた僕を見て驚くだろうね。でも、きっと笑って迎えてくれると信じている。
ジュリアーノが病に侵されていると聞いたのは、二年前。私がこの町に越してきて一年がたったころだった。すぐに会いに行くべきだったのだろう、けれど、あのときの私には彼に会うことはできなかった。私は音楽を捨てたのだ、いったいどんな顔をして会いに行けばいいのかわからなかった。いや、違う。彼は国際コンクールでは1位をとり、リサイタルではいつも満席。あんな演奏をした私とはあまりにも対象的な活躍ぶりで、本当は羨ましくて仕方がなかったから───それからジュリアーノとは、一度も連絡をとってはいなかった。
病のせいなのか、それとも単に感情の高まりからなのか分からない。その文字はかすかに揺れているように見えた。ただそこからは、どこか穏やかで決然とした響きが感じられた。
その夜、私は眠れなかった。この手紙を握りしめ、曇った窓越しに外を見つめていた。路地を歩く人影はほとんどなく、時折聞こえるのは風が通り抜ける音だけだった。濃紺に満ちた空に小さく光る星の姿が、とても美しかった。雲の隙間から見え隠れする月の輝きが、とても眩しかった。胸の中で、何かが静かに動いていた。それは、長い間忘れていた感覚だった。
気づけば私は外へ飛び出していた。街灯の少ない暗い夜道を走り、タクシーを捕まえた。そして、あの大学の教室へと足を踏み入れた。そこには、私がジュリアーノと出会った日に弾いていたグランドピアノが、ぽつんと佇んでいた。
部屋には薄暗い灯りしかなく、空気も冷たい。夜の静けさが私を包み込む。息を吐くと白い煙が立ち上る。私はピアノの蓋をゆっくりと開け、埃を払い落とした。鍵盤に触れると、ひんやりとした感触が指に伝わる。その冷たさが、かつての自分を思い出させた。音を鳴らすことへの恐れ、同時にそれを再び奏でる力強さを取り戻す予感もあった。
私はゆっくりと指を動かしはじめた。最初の音は、あまりにも弱く、かすれたように響いた。それでも、手のひらに伝わる感覚が心地よく、次第に震えは収まり、指が自然と動き出す。音楽が、再び私を包み込んだ瞬間だった。
そのとき、背後から声が聞こえた。
「シューマン、トロイメライ。その音だ。」
驚いて振り返ると、ジュリアーノが立っていた。痩せた体を杖で支えながら、柔らかな微笑を浮かべている。その姿はかつてのような健康なものではなかったが、瞳には昔と変わらない情熱が宿っていた。
「ジュリアーノ……?どうして……」
「君がここで弾いている気がしてね」
ジュリアーノはそっとヴァイオリンケースを置き、中からヴァイオリンを取り出した。それは丁寧に磨かれており、いまでも愛情を注いでいることが一目で分かる楽器だった。
「これが僕の最期の演奏になると思う。だから、どうしてももう一度君と音楽を分かち合いたかったんだ」
私は言葉を失ったまま、ただうなずくことしかできなかった。ジュリアーノが弓を構えると、部屋の空気が一変した。
「始めようか」
ヴァイオリンの音が最初に響いた。それは深く、豊かで、どこか切なさを帯びていた。その音に誘われるように、私の指が鍵盤を滑り始める。二つの音が絡み合い、紡ぎ出す旋律が部屋を満たしていく。音楽の中に、過去の記憶が浮かんでは消えていった。失敗の苦い記憶さえ、この瞬間には意味を持たなかった。ただ音楽だけが、すべてを超えてそこにあった。
曲が終わった。静寂が訪れた。ジュリアーノは深く息をつき、穏やかに笑った。その笑顔には満足と解放感が宿っていた。
「ありがとう。君のおかげで、最期に最高の夜を過ごせたよ」
「最期、最期って。そんなこと言わないで。また一緒に───」
彼は何も言わなかった。ただ微笑んでいるだけだった。その顔を見ていたら、どうしても最後まで言葉が出なかった。
翌朝、ジュリアーノが息を引き取ったという知らせが届いた。病気であることを忘れさせるような、そんな穏やかな顔をしていたという。彼の愛器であるヴァイオリンは、遺品として彼とともに埋葬された。葬式を終えた夜、私はもう一度ピアノの前に座った。今度は自分の部屋で。
鍵盤に触れると、あの夜の旋律が鮮やかに蘇った。それはまるで、ジュリアーノがそこにいるかのようだった。音楽は消えない。たとえ人がこの世を去っても、その響きは永遠に生き続ける。ジュリアーノとの最後の演奏は、私に再び音楽と向き合う勇気を与えてくれた。
「君は音楽に愛されている。また君のピアノを響かせてほしい。約束だ」
病室に残されていたという私宛てのメッセージ。石畳の町の夜、私はピアノに触れながら、彼と共に紡いだ音楽が未来へと続いていくのを感じていた。
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