捨てる神あれば拾う神あり、されど神は人の作りしもの
『デオナール アジア最大最古のごみ山』
著:ソーミャ・ロイ 訳:山田美明
読了レビューです。
文字数:約1,800文字 ネタバレ:一部あり
インドの中西部にムンバイという市街県および市があり、その市街地の端にあるデオナールごみ集積場に生きる人々、それが本書の主人公だ。
そもそも「ごみ」とは何だろう?
以前にレビューした本の著者、ごみ清掃員芸人の滝沢秀一さんがいつだったか、次のように話していた。
この世界に「ごみ」として生み出されたものはありません。
たしかに世界の万物は何かのために形を得て存在しており、空気中に8割ふくまれていながら呼吸には利用できない窒素も、人体を構成するタンパク質、アミノ酸として欠くことのできないものだ。
それでも人類は豊かさを求めて物品を作り、やがてそれらは「ごみ」となって捨てられる。
どんな人でもごみを出すし、現代の生活において一切のごみを出さない生活は不可能だ。
本書の舞台となるデオナールには、分別されないごみが山脈を形成しており、そこから再利用可能なものを拾い集めてお金を得る「くず拾い」という職業を生み出した。
まさしく「捨てる神あれば拾う神あり」を体現しているものの、再利用もできない生ごみはやがて発酵して燃え上がり、発生した有毒ガスを市街地へと送り届けた。
発展した都市の影がデオナールを作り、それが都市へと逆流するのは皮肉としか言えない。
深刻すぎる大気汚染への対策として、すでに頓挫していた処理場の建設が再始動するかに思えたが、膨らんでは消える泡のように計画は実行されないまま、本書の紙面は尽きてしまう。
それでもごみ山は社会問題として認知され、それを利用して生きる人々は法を犯す者として排除されていく。
ごみ山で生きる人々が健康であるはずもなく、ごみに混じったガラスや鉄線などに肌を切られ、燃える大地に足を焼かれながらも、多くの人はごみ山から離れることができない。
なぜか?
ごみ山からその日の収入を得るばかりで、ほとんど学校に行かないまま成長した人間にとって、他に生きる術を見つけるのが難しいためだ。
父親が借金を作って失踪したメーハルーンについて、次のように書かれている。
彼女の母親は薬の治験によって収入を得るべく、家を何日か空ける。そのたびにメーハルーンをふくめた子供たちは別の場所で過ごしたそうな。そして巻末に「17歳で婚約した」とある。
親の収入が子供の収入と関連するという話があり、それが本書に登場する人々にも当てはまるとするのは、いささか乱暴かもしれないと思いつつ、完全な筋違いというわけでもないだろう。
とても健康的とはいえない、むしろ劣悪な環境に暮らす人々の体調が良いはずもなく。
彼らもそれは分かっており薬を使うこともあるけれど、一方で神仏への祈祷に頼るのが国民性というべきなのか。
そもそもごみ山には悪霊がいて、それが人に取りつくのだという考えもさることながら、祈祷によって快復を願える思想がすごい。
著者も言及しているけれど、彼らはそうした思想で現実を見ないようにしているのかもしれず、生きるための手段とはいえ心に迫るものがあった。
これを書いている私もまた現代の都市の片隅で暮らしており、日々ごみを生み出さなければ生きられない。
さすがにそれ自体を罪だとは思わないけれど、この先も人類が今と同じ生活を続けられるとは考えにくい。
実際、夏が暑くなり豪雨による洪水などの被害も増えており、反対に雨が降らなくなった国や地域があると聞く。
それは地中に埋まった炭化水素、つまり石油などの「資源」あるいは「ごみ」を再利用しているのが、要因として大きいとされる。
本書を読んでいて、ごみ山に生きるくず拾いと私とで、さほど違いがないように思えたのは気のせいだろうか。
あらためて冒頭の言葉を思い出してみる。
この世界に「ごみ」として生み出されたものはありません。
私たち人類もまた、この世界に存在しないはずの「ごみ」ではないと信じたい。