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無言の帷子《かたびら》
この時期になると思い出すことのひとつに、8歳の頃の兄がいる。
絶望
「いやだ!きものきせてくれるって、いったじゃん!」
私が4歳の時の話だ。
近所でやっていた夏祭りにどうしても浴衣を着て行きたくて、私は母の前で泣き喚いていた。
着物と浴衣の区別もついていない、ただ姉たちが楽しそうに着飾る姿を見て「私も」とせがんでいた年齢である。
もともと母が「海にも着せてあげるからね」と約束してくれていたのだけど、二つ上の姉の着付けを終えたタイミングで祖母から連絡が入り、急遽母だけ出かけないといけなくなってしまったのだった。(何の用件だったかは覚えていない)
そのときの絶望感と言ったらこの上ない。
しかも私は楽しみにしすぎて、すぐに着付けできるようにインナーシャツとパンツだけの姿でずっと待機していたのだ。今想像したらなんとまぬけな光景だっただろう。
母が出かけた後も、私はその姿でわんわんと泣いていた。
救世主
そんな状況を見かねたのか、近づいてきたのが4つ年の離れた兄だった。
私は身構えた。兄が苦手だったからだ。
鼻炎持ちでいつも鼻水を垂らし、膝小僧は傷だらけで汚くて、ことあるごとに私や妹を殴ったり蹴ったりしてくる。とにかく「聞かん坊」「暴れん坊」という印象が強かった。
ところがそのとき兄がしたのは、何も言わずに私の肩に浴衣をかけることだった。
そして母の見よう見まねなのか、慣れない手つきでお端折りを作り、紐で仮止めをしていく。
8歳の男の子が、である。
「兄ちゃん、できるの?」
兄は答えなかった。
それでも、黙々と帯を結び始めた。
お端折りは不恰好だし、くしゅくしゅの帯は片結びになっていたけど、私にはそんなことどうでもよかった。兄が浴衣を着せてくれた驚きと、浴衣を着ることができた喜びの方が遥かに勝っていた。
着付けが終わると、分かりやすく私の機嫌は直った。
鏡の前で何度も浴衣姿の自分を見ているうちに、今度は早くお祭に行ってみたくなった。
兄も姉も、母のことが待ちきれないようだった。
「よし、行くか」
兄の自転車の後ろに私。姉は自分の自転車に乗って、3人で会場に行くことにした。
青々とした田んぼの中を走りながら、怖くて苦手だった兄の背中が、とても優しく、頼もしく見えたことを覚えている。
ちがうよ
お祭り会場に着くや否や、血相を変えた母が私たちを見つけて追いかけてきた。自分がちょっと不在にした間に8歳・6歳・4歳の子供がいなくなっていたのだ。無理もない。
合流すると息を切らしながら声をかけてきた。
「これ、浴衣!どうしたの!?」
私は満足そうに答えた。
「にいちゃんがきせてくれたのー!」
兄も少し得意げな顔をしていた。
後から聞いた話だけど、このとき母は兄の行動に思わず泣きそうになったらしい。
まだまだ幼いと思っていた男の子が、自分の妹のために浴衣を着せて、自転車でここまで連れてきただなんて。
するとそこに、近所のおばちゃんが通りがかって挨拶をしてきた。
「あらあ、みんな可愛い浴衣だねー!」
そうだろう、そうだろうとも。
「あ、でも待って海ちゃんあんたこれ、死装束じゃないの!!」
あまりに大声で言うもんだから、私はだいぶ萎縮してしまった。「しにしょうぞく」という単語も知らなかったけど、どうやら浴衣の衿の重ね方が違うらしいということを瞬時に理解した。
するとそのおばちゃんはこともあろうか公衆の面前で、「片結びだねえ」とかブツブツ言いながら私の帯を解き始めたのだった。それから共衿をガッと開くと、シャツとパンツが丸見えの状態でさっさと重ねを直し、帯を締め直して「これでよし」と満足そうに私を見た。
兄が着せてくれた浴衣が、直されてしまった。
誰かに下着姿を見られたかもしれないことより、よっぽどその事実の方が私を嫌な気持ちにさせた。
私はおばちゃんにお礼は言わないまま、兄の顔を見た。
兄はきゅっと口を結んで地面を見ていて、さっきまでの得意げな顔はそこにはなかった。
私はもっと悲しくなった。
急に静かなった私たちに対して、おばちゃんは「どうしたの?疲れちゃったのかな?ま、お祭り楽しんでね。またね」と言って嵐のように去っていった。
ちがうよ。つかれたわけじゃないよ。
わたしはしにしょうぞくのままでも、かたむすびのままでも、「にいちゃんがきせてくれたきもの」のほうがよかったよ。
そんな言葉は、おばちゃんにも兄にも、結局かけられなかったのだけど。
女ごころ音痴
上に姉が3人、下に妹が3人。そして結婚した今は、娘が3人。
「家事と育児にもっと協力して!」と嫁さんに怒られながらも、兄はなかなかに毎日奮闘しているようである。
女ばっかりに囲まれて育ったにも関わらず、いや、むしろそうだからなのか、あそこまで女ごころを理解せずに、立ち回りが下手くそなのも笑ってしまうけど。
昔と変わらず不器用で口下手なりに一生懸命奥さんと子供たちと向き合い続ける、そんな兄が私は好きだ。
今年は3年ぶりに、祭りが開催されるらしい。
今度兄の子どもたちがうちに来たら、浴衣を着せてあげながら、この話をしてあげようと思う。