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戦争を起こしやすい国ニッポン ~ 悪いのはそちら、こちらには何の問題も責任もない、と言い張る人たち (主に男たち)

戦争を起こしやすい人たちとは、歴史的に見ても、明らかに「男たち」です。アレクシエーヴィチの名著「戦争は女の顔をしていない」に倣うなら、
「戦争は男たちの顔をしている」です。

きのこ雲の下、腕を突き出していた人々

2015年8月に見たNHKドキュメント番組「きのこ雲の下で何が起きていたのか 」は深く心に焼きつく映像と内容でした。広島に原爆が投下されて3時間後に、爆心地近くの橋でたまたま撮影されていた2枚の写真。

番組では、その写真に写っていた人やそこを通った人を探し出して聞いた話をもとに、CG技術によってその写真に色と動きと声が与えられた「動画」が創作されます。その映像には、実際に凄惨な現場を目撃したかのような、痛切な衝撃と悲しみがありました。

たとえば、腕を前に突き出し、ボロボロの布が付いているように見える人の姿が写っています。実は、原爆の3,000度を越す強烈な熱線によって皮膚の水分が一瞬で水蒸気になり、その皮膚が膨らみ裂けて垂れさがっていたのだとわかり、こすれると痛いので両腕を前に突き出したまま歩いているのでした。痛覚神経がむき出しなので「おそらく人間が感じる痛みの中で最大の痛み」と、番組で取材を受けた医師が語ります。

そういえば、私が小学校の頃に受けた授業で紹介された「原爆の話」をふいに思い出しました;

向こうから帯ひものほどけた着物姿の女性がよろよろと歩いて来た・・・私は、ひもがほどけていますよ、と声をかけようとしてその女性の姿をよく見ると愕然とした、帯ひもと思っていたものは、腹から飛び出た内臓だった・・・

番組を見ながら私は心の中で繰り返し思いました・・・こんなに悲惨でむごたらしいのに、「核のない平和を!」という被爆国の切実な願いは、いまだに人類で共有しあえていないのはなぜだろう、犠牲者の尊い声はなぜ世界中の人々に聞こえていないのだろう?

しかしです、・・
思えば、なにも日本人だけに限ったことではなく、この20世紀以降の戦争での最大の犠牲者は常に武器を持たぬ「一般市民」です。2023年8月現在までのところ、「原子爆弾」以上の壊滅的な殺傷力を持った兵器はまだ日本以外では使用されていないだけであり、これから未来に、どこで、どんな恐ろしい新兵器が使われることになるのか、誰にもわからないのが実情でしょう。

おそらくこの世には、何かちっぽけな野心とつまらない欲望のために他人を犠牲にして戦争を行おうとする人たち(・・たとえば、武器を製造販売する軍需産業、国家がらみの利権争いなど・・)がいるのですが、彼らはたいてい男たちで、悪人タイプの人間には全く見えない有能なビジネスマン風の外見で、当人たちも悪いことはしていない、むしろ国のため社会のために貢献していると思っているので、結局、世の中の人々は彼らの都合のいいように利用されてしまっている、と思うのです。

信条や所属団体、あるいは民族・国家を超え、世界中のあらゆる人々にとって「公平な正しさ」は成立しないし、「核なき永久平和」など実現しえないというのが、残念ながら世界の非情な現実です。それぞれの立場側からすれば、「悪いのはそちらで、こちらには何の問題も責任もない」と言い張っているのです。

アメリカ人たちに聞く、「原爆投下は正しかったと思いますか」

番組後半では、アメリカのジャーナリストや大学教授の話が紹介されていました。
彼らによると、原爆投下後、進駐アメリカ軍は原爆被害に関する報道規制を行い、現場を撮影した写真を没収して回ったとのこと。理由は、一般市民が悲惨な犠牲になっていることを伏せ、核開発をさらに推し進めて、当時のソ連との冷戦状態で有利に立つためだった、ということです。

別の番組で、戦勝国アメリカでの街頭インタビューを紹介しながら、「戦争を終わらせるために原爆投下は正しかった」と思っているアメリカ人が多いとナレーターが語ります。しかし、被爆者となった敗戦国の日本からすれば、「そうはいっても、通常の爆弾ではなく、なぜ原子爆弾を選んだのか、そんな非人道的なことが正しいはずがない。」と詰め寄りたくなるほど憤りを感じることでしょう。

これに関し、つい先日に放映された地上波TV「真相報道バンキシャ!」に出演していた池上彰さんのレポートを一部要約して紹介します:

ロシアは、核兵器の使用をちらつかせていて、6月に隣国のベラルーシに最初の核ミサイルを運び込んだと発表。そのベラルーシ大統領は、「自国への攻撃があれば、核兵器を使用することもためらわない」として、ベラルーシと国境を接するポーランドは警戒を強めています。

また、ロシアは「平和条約の締結か、あるいはアメリカが広島と長崎へ原爆投下したことと同じことをすれば、戦争は早く終わらせることができる」と、恐るべき発言をしています。    

次に、アメリカ人の意識調査が紹介されます(簡約):

1945年の原爆投下直後、日本へ原爆を使用したことを「支持する」85%、
その60年後の2005年には「支持する」は57%に減少
2020年の調査では「支持する」は39%と、さらに減少

( 8月6日放送『真相報道バンキシャ!』より 日本テレビ )

番組では、一般のアメリカ人たちの、原爆投下に対する関心の低さ・無知さが戦後ずっと続いてきた最大の原因は、「学習・教育がなされてこなかった」ことにあると分析していました。原爆を使用した最初の国として自らの
倫理性を問いただすことなど、戦勝国であるアメリカには必要なかったことでしょう。つまり、「悪いのはそちらニッポンで、こちらアメリカには何の問題も責任もない」ということです。

21世紀になった現在でも、核保有国の主張する「核武装による抑止力」と、非保有国の「核廃絶による恒久平和」との間には、相変わらず譲歩しあえない深い断絶があるようです。私たちの国、唯一の被爆国ニッポンでさえ、微妙な立場に身を置いて顔色を窺ってばかりに見えます。


散って逝ったひとたち

同じ8月、また別の民放番組では、お国のために若くして散って逝った「特攻隊」の特集が流れていました。上から命令されたわけではなく、志願して自らの命を捧げた人たちでした。生き残った兵士の証言があります:

ただ命を捨てるだけの無謀な作戦であるとわかっていながら、そうせざるをえない雰囲気があった、そうしないと先に死んでいった同胞たちに申し訳ないと思った、だからみんな出陣していったのです・・・


歴史に関わるこの証言には、共鳴とともに身につまされる思いでいっぱいになりますが、21世紀現在の社会風潮から冷静に捉えれば、「同調圧力」と批判されかねない要素も感じます。
ある雑誌の記事で、現代の自爆テロと旧日本軍の神風突撃との類似点を指摘していました。少なくとも、攻撃を受ける被害者側からすれば、彼らはすっかり洗脳された狂気の異常行動でしかないという見方です。
しかし、日本人の一般心情としては、死んだ敵兵に対する謝罪ではなく、玉砕した特攻隊の「尊いいのち」を惜しむ気持のほうが強いはずです。
あのような戦時下で、「お国のため、家族のため」と潔く死を選ぶことが尊い行いだとみんなで信じ込もうとした時代に、「不戦」を貫くことは難しかったでしょう。やはりここでも、「悪いのはアメリカ、ニッポンには何の問題も責任もない」ということです。

この日本に今もなお生きている「世間体」

先のNHK番組で、広島の被爆から生き残った女性に取材を申し込んだが「被爆者だとわかると差別を受けるから出演しない」というエピソードが紹介されていました。本来ならば、悲惨な被爆の犠牲者であり、優先的に手厚い看護を受けるべき人たちが肩身の狭い思いを強いられているという、あまりに愚かしく、あまりにニッポン的な現実!
この「肩身の狭い思い」とは、今でも時おり耳にする「世間体を保つ」・「世間体が悪い」の、あの「世間体」と関連した表現でしょう。
「世間体」の良い面としては、「自らが慎しみ深く善良であることを示すことで、他者から反感をかわないようにすること」でしょう。しかし、悪い面としては、「うわべだけは何とか取り繕い、見て見ぬふりをする」ことにもなるでしょう。
何かが困った問題が起こっているのに、「何も起こっていなかった」ことにするのに私たちはとても細やかな神経を使いがちです。それは、世間で無難に生きてゆく知恵でしょうが、問題の本質と向き合うことを避けるので、いつかは大きく破綻することにもなります。学校にいじめはなかったと主張する現場教師、パワハラではないと居直る職場管理職、実効性のない施策に無責任な官公庁職員など、病根はすべて同じに思えます。

つまり、「責任と主体性の欠如」です。世間の目を気にするあまり、自分の責任において物事をしっかり考えずにその場の雰囲気や状況に流され、問題を隠蔽して何もなかったことにしようとする態度こそ、世間体の最も悪い側面です。

最後に、戦争を起こしやすい国、ニッポン・・?

「平和を希求する民衆ほど、それを失う恐れから、仮想敵の脅威に作用されやすい」

この言葉は、伊勢崎賢治著「紛争屋の外交論~ニッポンの出口戦略」(NHK出版新書)の中からの引用です。
これは、まさにニッポン民衆のことだと筆者は主張し、その理由のひとつが以下です:

2009年、海賊の出没するソマリア沖を航行する日本籍の船舶を守るために自衛隊の艦隊が派遣される。これは戦後の日本が国益のために武力行使した初めてのケース。
「武力の行使を永久に放棄する」と謳った憲法9条を守ることを主張する国内護憲派は、国連平和維持活動のため自衛隊を海外派遣させることには違憲行為だと強く反対していたのに、「海外の日本人の命が危ない」と伝え聞いただけで、あっさり武力行使を容認してしまう。

筆者は、護憲派たちは、国民感情に訴えた政府の巧みなプロパガンダに簡単にひっかかったのだ、と指摘しています。私も当時は、報道を聞きながら、単純に「海外の日本人を助けなければ」と思い、武装した自衛隊の派遣を頼もしく感じたものです。

厳しい指摘ですが、「平和憲法、永久に武力行使の放棄」と訴えるだけでは、混乱した世界情勢にあっというまに飲み込まれて、「悪いのはそちら、こちらには何の問題も責任もない」と主張して、いつのまにか「武力行使する側」になってしまうということではないでしょうか。


かつて、多くの日本人による「他国への侵略戦争を大義とし、全国民玉砕覚悟の本土決戦へと突き進もうとした」ことは、変えられない事実であるはずです。
これから未来において再び、まわりがそんな雰囲気だから自分も合わせなければと、「世間体を保つために」・「世間体が悪いから」と、みんなで同調圧力し合って戦争までしてしまう国にならないことを願うのみです。