はじめに (石塚)|making for daily life
📕 #|making for daily lifeについて
📘 #|はじめに(石村)
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📘 #00|DIYは準備が重要
📕 #01|ブックエンドのいらない本棚
📕 #02|シンプルな収納と引き出し
📕 #03|コードを巻けるキャビネット
📕 #04|上から使える収納
イシムラハウスの日々の生活の改善や、あだちシティコンポストでの活動は、自分や共に暮らす家族へと注意をむけ、使ってみたり、観察したりすることで「もっとこうだったらいいのに」と小さな可能性を見出すための実践でもある。私自身は片付けが苦手な性分で、仕事やプロジェクトに没頭している時は「片付けをする時間なんてもったいない」と思っているし、没頭していない時でも積極的に動くことはまずない。そんな状態を見かねた家族にいい加減にしなさいと言われても「この収納に本が収まらないから全部まとめてうえに置いてるんだ」などと、得意な屁理屈をかますので、家族にとってもとんだ迷惑だろう。
片付けが苦手な私の生活スタイルにフィットさせたい、ハンガーを引っ掛けられるフックがかべにほしい、無印のサーキュレーターをおけるちょうどいい場所はないかな、など、44.5 平米の小さなマンションの1室をリノベーションし、実際に暮らしはじめてから見えてくる「こうだったらいいのに」を実現するために試行錯誤し可変させていく。しかし、「できた、これが理想の部屋だ」と思うのもつかの間、犬を飼いはじめると「理想」は瞬く間に変化する。犬がゴミ箱を漁らないようにしたい、おしっこを引っ掛けられないようにしたいと、新しい悩みや望みがつぎつぎに生まれてくる。同様にこれから先も、2人+1匹の生活がいつまでも変わらず続くわけではない。
人間の生活や生命活動はもっと不確実でゆらぎがあり、変わらないことなど無なく、モノがつくられた・買った瞬間の前提はいずれ変わってしまう。良い状況のときも悪い状況のときもあり、元に戻ることはできないくらい大きな変化も起こり得る。一方で完成されたモノや空間は、完成された状態で固定されている。モノとしての自律性が高く、他者の介入余地がない。昔旅行でモダンデザインの傑作と言われるミースのバルセロナ・パビリオンに訪れたときに、自分の家にあるものを1つも持ち込めない空間だと感じた。完全であるがために余白がない。(もちろん、あの建物は博覧会のパビリオンとして作られたものであるので、生活するための家ではないから妥当だとも言えるが。)
デザイン史に載るオブジェクトの多くは完成された物理を伴っているため、発表時点で革新的かどうかの観点で語られる。つくり手による可能性の探索の結果であり、基本的には生み出された当初の良い状態が半永続的に続くことがが良しとされる。修復したり変形したりといった使い手によるモノへの介入の余地はあまりない。反対に、一般的にアカデミックに評価されにくいデジタルプロダクトのデザインは修復が前提とされており、絶えず変わり続けるさまが生命活動に近いかもしれないと感じていた。特に、自分が長く携わっていたSaaS(Software as a Service)分野のデザインではその傾向が強く、すべて完璧ではない状態でリリースすることもすくなくない。リリースは起点でしかなく、α版・β版といった不完全な状態をリリースし、実運用の中での使われ方をみながら、ツールとしてのよりよい姿が描かれ修復されつづけていく。その間にも新しい機能がエンジニアリングとして開発されていくので「完成した状態」にはいつも程遠く、終わりなく常に変化し続ける。
もちろん、物質的な存在のありなしによって完成のしかたは変わるだろう。おもしろいことに、DIYのモノは物理的な質量を伴っていても、その不完全さが手直しや修理を余地を残し、可能性を開いたままにしておくことができる。家の壁に釘を打てること、ネジを天井に差し込めること、そういった家の中に埋め込まれている可塑性が、余白や自由、そして生活の手触り感につながるのかもしれない。雑多なものと違和感なく同居し、変化を繰り返しても良いものがある空間での暮らしは、気軽で息苦しさを感じない。
反復的に可能性を探索していくことで、視点や価値観が変容し、「あるかもしれない」の境界線が広がっていく。流動性を保ち続ける、壊すことや変化することに過剰な恐れを持たずに視点や価値観をぐねぐねとこねくり回せるような状態でありつづけることは、結果として、わたし自身に想像力をもたらし、現在と異なるあり方を見出したり、他者へのケア的な態度への手がかりになる。わたしが仕事で考えているような社会的な制度やルールなども不変的なものであると囚われてしまうタイミングも多いが、完全に固定化せず、いかに振れ幅をもたせ、流動性を保ち続けていけるかが、ウェルビーイングであるためのキモであるようにも思う。
変えることは難しいのかもしれないと妥協して諦めてしまう怠惰な自分が、もっとこうできるかもしれないと、別のメガネをかけて世界を見るためのプラクティス。わたしににとっての生活の中の実践は、一緒に暮らす家族という最小単位の関係の中で、共にナイスな生活をつくりだす、足元でのド・ローカルな探求であるのです。