インド映画「ヒンディーミディアム」を見た感想
2019年9月本邦公開予定のインド映画、「ヒンディーミディアム」(2017)。社会言語学者として見ておかねばと思っていたら、試写会のTwitter抽選に当選し、見られることに。(ダンニャヴァード) 試写会よりだいぶ時間が経ってしまったが、書きかけだったレビューをついにここに。
あらすじ
「ヒンディーミディアム」とは、「ヒンディー語媒介校(=公立校)」のことである。本作の主人公夫婦は公立学校出身で、英語はあまり得意ではない。主人公夫婦は、一人娘をデリーの名門の「英語媒介校(=私立校)」に通わせたく、そこで奮闘する物語である。
(詳細は公式サイト「ヒンディーミディアム」や、諸レビュー((たとえば、インドの私立学校の生徒たちと遭遇した経験も交えて語っているこれ)))
英語が話せなくても、インドは「英語国」
英語とインド中流階級といえば、日本でもヒットした「マダム・イン・ニューヨーク」(2012)がすでに有名である。英語が苦手なアッパーミドルクラスの主婦シャシが、英語が話せる夫や子供たちに見下されているのを、米国滞在中に新しく英語を学び始め、自己の尊厳を取り戻すと同時に、自分を知るという映画だった。(この映画は、社会言語学・応用言語学のトピック的に、いろいろ考えさせられる名作だと思う)
「ヒンディーミディアム」は、基本的には笑いあり涙ありの王道コメディ映画である。音楽は、近年の王道、バングラ。(映画タイトルが「ヒンディー語媒介」でも音楽はパンジャービー語、笑)
一人娘を名門校に入れるため、主人公夫婦は、お金をかけて塾に通う。お金持ちエリアに引っ越してパーティーを開いたり公園デビューしたり、塾で面接対策として慣れない上流階級の価値観やTPOを身につけようと努力する。妻ミータが言うには、「英語はclass(階級)」であり、英語力がない限り、娘は永遠に「同年代の他の子たちよりも」遅れをとり、「世界を舞台に」活躍できないのだ。
ミータのことばからも、クライマックスでのラージのことばからも、インドが英語国であることを前提ないし当然としており、またそれを誇りにしていることが伺える。このあたりが、社会の押し付ける性別役割から生まれた個人的なコンプレックスと英語を結び付けた「マダム・イン・ニューヨーク」と似て非なるところである。
インディアン・ドリーム
冒頭の、夫ラージと妻ミータの出会い、そしてその15年後の夫ラージの仕事、というシーン。ここは、私はこういう映画を見に来たんだっけ、と一瞬疑ったほど、長く感じられた。でも、映画が終わってから、冒頭の言語や教育に関係しない部分、つまり映画の主なストーリーの時間よりも15年前の話が思ったよりも冗長だった意味を、自分なりに見出すことができた。その意味とは、インドの著しい経済発展と中産階級、というテーマである。
小さい下町の仕立て屋から比べて、だいぶ豊かになったラージ夫妻は、ブランドものの服や、高級住宅街の立派な家、薄型で大型のテレビなど、モノの豊かさを手に入れた。自分たちはそれで満足だが、英語や英語を話す人々の階級には、属していない。子どもには、そういう階級に属してほしい、という思いでいっぱいである。これまでの社会派の映画だったら、社会に根強く残る階級差別やコンプレックスというテーマで扱われそうなものだが、経済や社会がどんどん発展していく現代のインドでは、成長が当然なのだろう。つまり、英語を使い、有名大学を出ていないと、周囲の成長に比べて遅れをとってしまう、というあせりなのだろう。
社会で自分よりも貧しい人たちが存在しているおかげで自由にできており、そうした貧しい人たちの環境もよりよくなってほしい。同時に、自分の娘にはグローバルに活躍できるよう、最大の機会を与えたい。そして、その機会は限られており、その機会を逃すとその夢は完全に閉ざされる。そのため、他者を押しのけてでも…という葛藤や矛盾が現れている。
インド社会の外に住む私たちも共有する、個人と社会の課題
中国で大ヒットしたのは、これと似たような社会背景があるように思った。中国も急速な成長があり、上がさらに「上」を目指すため、みなが教育に熱心である。その中で、国内の格差はおきざりになり、これ見よがしに一部の芸能人(特に「中国と手を取りあおう」という機運があった、少し前の台湾香港)はそうした貧困層を救うプロジェクトを行っていたりした。
結局、あまり英語や「言語と社会」の話と絡まなくなってしまったが、それは、映画の社会背景や問題が、純粋にインドのみで抱えている社会背景や問題ではなく、グローバルに見られる現象だと感じられてしまったからだ。インド映画を見るとき、宗教対立とか、社会に引き裂かれる男女の仲とか、カーストがとか、そういう自分とは違う社会の問題を見て疑似体験していたが、この映画は、インドも日本も中国もどこかでつながっていると思わせた。それは、単に「英語教育=グローバル教育」や、過熱する受験戦争(日本は過熱していないが)とかいう話ではない。この日本も、格差の拡大が懸念されている。子どもの数が微増している東京では、公教育への予算が不十分だから私立中学へ進学させなきゃ、と受験産業はあおる。子どもを公教育にやって将来「競争」に勝てず低収入でも、社会ではなく親の責任、と新自由主義が断罪する、とインドでも日本でも中国でもみな信じている。
バブルを経験しなかった世代として、自分も社会もどんどん発展し豊かになるという自信が前提となっているこの映画は、まぶしいと思った。英語の使用に関して、脱植民化とか、グローバル化とか、そういう抽象的な議論が人文系ではまだ続けられているが、経済発展や景気後退で生まれる格差拡大の懸念、そして新自由主義的競争は、どこの国でも、中産階級の親の肩に重くのしかかってる、と感じた。
見てくれ大事で一生懸命上流階級に入ろうとする下町出身のおしゃれ夫婦を嘲笑し、現実世界では話題にもならない古典的な「正義」をなんとか通そうとするラージの決断に驚きながらも心の中で拍手喝采することで、少しでも違った視点からその自分の「重荷」を笑い飛ばすというのは、まさしく映画鑑賞がなせる業だろう。