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愛するってこういうことなのかもしれないのかもしれない

こんなタイトルをつけた自分にびっくりしています。「かもしれない」は精一杯の照れ隠しです。

今回は、読んだ本の紹介をさせてください。
個人的にはここに書き留めておけばいつでも見返せるから、そういう使い方をしたいなあと思って。

 愛するって、こういうことなんだ、って分かった。誰にも感じたことのない深い祈るような感情が、自分の中にあった。この子が幸せでありますように、この子を幸せにできますように、幸せにしなくちゃ、なにがなんでも、っていう覚悟みたいな決意みたいな。自分にはなにも返ってこなくていいから、この子にいつもいいものがありますように。どうか、雨の日よりも晴れの日が多くありますように。こわい夢を見ませんように。おいしいものが食べられますように。時々、わたしのことを考えてくれますように。でも、考えなくても、いいよ。そんな気持ち。

それでも愛しているのだと、わたしは、わたしに納得させることができない。ロクジロウのことを大切におもう。もしロクジロウがわたしと暮らさない方が幸せになれるんなら、たとえさみしくたって、わたしはそうしただろう。だけど求められるならすぐに会いに行くだろう。求められなければ、求められたくて必死になるだろう。見返りがなくて平気だとは言わない。見返りはただ、ロクジロウの幸せだけだ。

大学は、子どもが子どもでいられる最後の最後のところですよ。なんかそれがまぶしくてね、ぼくは好きです

わたしがわたしであるというだけでは、多分じゅうぶんではないから、他のもので足したいと、思ってしまう。彼らの期待値と私の理想値はいつだって似通っている。そうありたいと、やはり思う。愛され承認され、ぐるぐる巻かれてあったかくなるために。

明日からどうしようかな、何を見て、何を聞いて、どうやって生きていこうかな。何をよすがに、何のために、何を言い聞かせていれば、まるで自分のために生きているみたいに、息ができるんだろう。

わたしのほしいものは、子どもの形をしている。けど、子どもではない。子どもじゃないのに、その子の中に全部入ってる。

最近感じていること、自分ではうまく言語化できなくてうーん。。となっていたところ、どんぴしゃりで言葉にしてくれていてスカッとしました。
その人に対して、祈りにも似たその感情だけで生きていけるような、そんなかたちがあってもいいんじゃないかしら。

愛されたい嫌われたくない、そのあたりのことを最近は少し遠くに感じられるようになった気でいたけれど、根っこにはずっといるみたいです。物わかりのいい人間にはなれないみたい。

眠れない夜のおともに、ぜひ読んでみてください。


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