刹那と本当の強さ
恩田陸さんの『祝祭と予感』を読んで。
素敵な出会い
『蜜蜂と遠雷』を読み終えたとき、もっとこの人たちの日々が見たい!という気持ちになった。そして、このスピンオフ作品の存在を知って、迷いなく購入、あっという間に読了してしまった。
印象的だったのは、奏ちゃんとパヴェル氏のヴィオラの出会いが描かれた『鈴蘭と階段』と、ホフマン先生と風間塵の出会いが描かれた『伝説と予感』。素敵な出会いという、何かが始まる"予感"にわくわくして、私の心がその前向きな感情に喜んだのかもしれない。
それぞれ、コンクールの後と前の話で、その出会いが起こった時も場所も全く違っていて、全くの別の出来事。でも。ホルマン先生と風間塵が出会って、塵が亜夜と同じコンクールに出場して、コンクール期間の日々を経て奏はヴィオラに転向する決意をかため、自分のヴィオラ選びに悩む中で亜夜と塵がきっかけで素敵なヴィオラに出会う。と、すべて、繋がっている。(壮大な物語を表すにはあまりに割愛事項が多いけれど)
人は、互いに影響を与え合っている。本人は何の関連性も脈絡もないと思っていることでも、誰かの何かの小さなきっかけになっていることがある。
登場人物がどんどん繋がっていく物語といえば、青山美智子さんのあたたかな各小説を連想する。私が青山さんを知った(と出会った)『木曜日にはココアを』をはじめ。
人生の刹那
連想といえば。三枝子とナサニエルの話『獅子と芍薬』を読んで、私はなぜかハリー・ポッターシリーズを連想した。
たぶん、本編『蜜蜂と遠雷』では主に審査員という立場で登場した二人がかつてコンテスタントだった時代を垣間見て、世代交代や時間の経過、人生の刹那を感じ、どこか感傷的な気持ちになったからだと思う。
小学生のときに初めて読んでどハマったハリー・ポッターシリーズ。ハリーの親世代がホグワーツ生だった頃のエピソードが登場する場面で、私はいつも少し切ない気持ちになった。そこには、ハリーがもう両親に会えないという事実に対する寂しさだけではなくて、子どもだった全ての人はいつか親や大人になっていく、いつまでも子どもではいられない、という間接的な気づきがあった。さらに言うと人はいつか必ず死ぬということをその先にふんわりと連想してしまっていたのだと思う。小学生だった当時はここまで言語化はできないものの、何となくこんなようなことを感じて少し切ない気持ちになっていたんだろうな。
弱さを見せられる強さ
そういえば、刹那って曲があったなと、GReeeeNの刹那が聴きたくなった。
弱い自分を認められること、自分の弱みを人に見せられることの強さを、頭ではやっとわかり始めたのに、それができない私はまだ弱い。でも、そんな自分も含めて、自分。
びっくりするくらい、刹那には今の私に必要な言葉が並んでいた。
2009年の曲。『蜜蜂と遠雷』を読んで、クラシック音楽や絵画といった非言語の芸術っていいなと思ったばかりだけれど、ストレートな表現が並んだ平成のJ-Popもいいなと思った。
消えものの美しさ
刹那といえば、奏の話『鈴蘭と階段』の中に出てくる次の部分。
私は芸術を言語か非言語かという二分で考えてしまっていたけれど、「消えもの」かどうかという区分の仕方もあるなと思った。
本や映画といった物語、音楽や絵画といったアート、空、自然、おいしいごはんやスイーツ。好きなものについて考えてみると、どれも何かしらの形で"形に残す"ことはできるけれど、出会いの瞬間や、楽しむ、愉しむ、味わうその時間はどれも刹那的な消えもの。だからこそ、五感に訴えるものがあって、心が動くのかもしれない。
そういう"刹那"を感じたときに、なくなってしまう(あるいは終わってしまう、変わってしまう)ことの切なさ以上に、だからこその美しさを感じ取ることができる人って強いなと(そうすることが苦手な私は)思う。
p.s. 音楽エッセイはまたゆっくり🎼😌