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歴史に埋もれたフィメールラッパーの功績にライトを|つやちゃん著「わたしはラップをやることに決めた」

"フィメールラッパー批評原論"、表紙に印字された文字からは、本書が言葉どおりHIPHOPシーンで活躍する女性ラッパーに着目した音楽批評であることが伺える。ポイントなのは、著者が本書で願うのは、"フィメールラッパー"と括る必要のない時代、ということだ。


わたしは、まずここにハッした。

HIPHOPを聴きはじめてから10年以上になる。特に、男性中心のシーンの中で活躍する女性アーティスト達の様子をみては、同性として鼓舞させられてきた。

女だってかっこいいラッパーがいるんだぜ!という意味で、”フィメール”という表現を勲章のように感じていた時期もある。しかし、今となってはそのカテゴライズが、個々のアーティストの音楽性よりも先行し、不要な印象まで与えてしまっているのは指摘の通りである。

こちらも考えをアップデートせねば、と思い読み始めた。

シーンに埋もれてしまった彼女たちにライトを

フィメールラッパーたちがタイトルのように「わたしはラップをやることに決めた」と決意する瞬間の葛藤を思い浮かべ、またあとがきでは「わたしはフィメールラッパーについて書くことに決めた」と語る著者を思う。筆を取るのにも並々ならぬ想いがあったに違いない。

なぜか。各章で取り上げられるアーティストは、まさにフィメールラップ史を語る上で外せないアーティストばかりだと思うが、必ずしもシーンで成功を収めたアーティストばかりではないことに気づく。

嫌われるよりも存在を無視される方が辛い、などと言われることがあるが、シーンの中で評価されていない/或いはめったに語られることのなかったアーティストもいる。皆が頷く存在ばかりではないからこそ、世間が気づいていない功績を丁寧に解説する必要がある。そして、それを著者は見事にやってのけ、その一つ一つを「ギャラリーに飾っていく」のである。

つやちゃん氏の優れた考察の切り口

何と言ってもCOMA-CHIが取り上げられていたことが嬉しかった。わたし自身が彼女の活動に憧れ、エンパワーメントされた立場であり、"COMA-CHI系のギャル"の一人(少なくともメンタルは)を自負していた。

近年のスピリチュアルな音楽性からか、メディア等で取り上げられることが少なくなった。だがしかし、フィメールラップの興隆において旗手としての役目を果たしてきたのは紛れもなくCOMA-CHIだろう。

他に類を見ない鋭い批評は続く。特に印象的だった第8〜10章を紹介する。

第8章では、ちゃんみなこそ、多くの若者の代弁者としてのバトンを、加藤ミリヤから受け取った存在であるという考察に驚いた。若者の傷みのような感情を受け止め、楽曲に昇華させていく音楽性には目を瞠るものがあったが、たしかに、今まで加藤ミリヤがその役目を担っていたのだ。

第9章のElle Teresaでは、幼児性と表現される音楽スタイルに着目しつつも、シーンでの粘り強さと精力的な創作活動で、着実に存在感を増していく様子を語る。章冒頭の「粘りがち、である」という表現が響いた。

第10章のAYA a.k.a PANDA(彼女は特に、HIPHOPシーンでの正当な評価を受ける機会が乏しかったのではないか)では、そのリリックと「コスチューム性」と称す表現能力の豊かさに感心する。著者も取り上げる楽曲「猫だったっけな(犬ではない)」はまさに埋もれた名曲である。

全編を通して驚くのが著者の守備範囲の広さで、HIPHOPにとどまらない様々な音楽ジャンルからの切り口(後半に収録されたディスクレビューの情報量たるや)や、ファッションの変遷まで絡めて考察が進む。

フィメールラップで謳われるギャルの定義の移り変わりや、age嬢カルチャーにルーツを見出す"病み"の文化など、ファッションや人々のメンタル面と紐付けて見るラップカルチャーも面白い。

または、男性ラッパーが引用してきた「ドラゴンボール」と、女性ラッパーのリリックにみられる「セーラームーン」の対比など、ハッとする切り口も多々みられた。

フィメールラッパーの歴史を繋ぐインタビュー

本書には、各章の中でも引用されることが多かった2人のラッパーに対するインタビューも収録されている。またこの人選が秀逸で、まさにフィメールラッパーのパイオニア的存在であるCOMA-CHI(しかも丸子橋を臨むカフェにて(!) ※ )と、現在のシーンを牽引するアーティストの一人、valkneeが取り上げられている。

「フィメールラッパー」と呼ばれることについて疑問を呈す著者に対し、まだ現時点ではスポットライトが当たる分メリットがある、というvalkneeにやや切ない気持ちを抱きつつ、COMA-CHIがZoomgalsに注目していることに、時代を経たシーンの繋がりを感じ極まる。(また、個人的には藤井風のCOMA-CHIリスペクトについて触れられていたことが嬉しかった)

※余計な解説も挟むと、COMA-CHIのファーストアルバム『DAY BEFORE BLUE』の「skit-Cypher@丸子橋」という曲は男性のラッパーたちに混じってサイファーを繰り広げる様子が収録された楽曲だ。そもそも、男性に混じって和歌を詠んでいたという小野小町に因んで名付けられたMCネームを踏まえても、この曲がskitでありつつもCOMA-CHIを象徴する楽曲であることは明らかである。
それらを踏まえて、COMA-CHIへのインタビューとしてこの場所を選び、本書の終盤に掲載するという行為に、非常に著者のリスペクトが感じられた。

読み終わって感じた感謝と反省

わたし自身、各章で取り上げられているラッパーの大半をリアルタイムで追って来たため、懐古的な気持ちも含め様々な想いを抱きながらも読み進めた本書であった。
読み終わって感じるのはつやちゃん氏への感謝であったが、同時に、少し自分に対して恥ずかしい気持ちもあった。その原因は、フィメールラッパーたちに鼓舞され前線で応援していたはずの自分が、何故かシーンの"男性的"な目線や、このアーティストを好きな自分のみられ方、みたいなところを意識し、正しく評価することを避けていたのかもしれないということに気づいた。同調圧力に埋もれていた自分が恥ずかしくなったのだ。

フィメールかどうかなどというカテゴライズは不要だ。優れた楽曲/アーティストは広めていきたいし、応援したい。リスナーとしても襟を正す思いで本を閉じた。


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