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自信の「信」を勘違いしていた話


___自信

部活の顧問から届いた年賀状にはその2文字だけが書かれていた。

私が高校時代、サッカー部の顧問からよく言われていた言葉であり、その後の人生に於いてもよく絡みついてきた言葉である。

「自信を持て」「お前はできるんだからもっと自信を持て」
そんなことを言われたり、時には自分自身にそう言い聞かせた。何万回も。

私は自分をポジティブな人間だと思い込んでいた節がある。
実際、20代の頃は根拠のない自信とポジティブ思考「だけ」で人生の荒波を乗り切ってきた。
だが今になると分かる。自分をポジティブな人間だ、自分に自信がある、と言う人間は、実はネガティブで自信がない本当の自分を認めたくなくて、自分にそう言い聞かせているのだ。誤解のないようにお伝えしておくが、決してその状態を悪いと言っているのではない。

私が持っていた「はず」の自信とは、自分の過去の経験から来る、未来に対する「希望」であった。片手で数え切れるだけの僅かな成功体験を反芻し、そこから「自分ならやれる。あの時だってそうだったじゃないか。」と何度も言い聞かせて希望をリサイクルしていた。ツギハギだらけの希望であった。
だがあなたもご存知の通り、年齢を重ねれば重ねるほど、人生に立ちはだかる壁や障害はそのレベルをどんどん増していき、かつてのようなシンプルなものからますます複雑なものへ変化していく。そうして頑張って頑張ってバリケードのように塗り固めてきた「自信だと思っていたもの」が打ち砕かれる時が必ず来る。
なぜか?

それは自分を「信用」してきたからである


ハァ?自分を信用して何が悪いの?それが「自信」でしょ?
そう思われただろうか。ごもっともである。私もそうだった。


本当に持つべき自信とは、自分を信用することではなく「信頼」することである


国語かよ!
もうホント、日本語ってムズかしいよね!!

信用とは過去の経験や実績に対する「評価」であり、数値化できるもの。
信頼とは過去や未来関係なく、「あるがまま」に対する愛であり、数値化できないもの。

信用は自分の過去、実績にしかフォーカスしていないため、良い結果が出ている時は順調に積み上がる(という錯覚なのだ)が、たった1度の失敗、敗北感によって全てが崩壊する、ゼロになることがある。
このケースの自信はいわば「条件付きの愛」なのである。よって、自分を信用し続けるためには勝ち続けなくてはならない、信用に値する自分で居続けなくては自分は愛されないという恐怖によって頑張り続けなくてはならないのである。死ぬまで。

一方の信頼とは、過去や未来といった時間軸は関係ない。成功、失敗の分類もない。つまり条件付きの愛ではない。上手くいこうがいくまいが、思った通りの結果になろうがなるまいが、「どんな私であっても、あるがままで良い。それが最善」というスタンスで何が起こっても自分への愛には何の影響もない状態である。このケースの自信は「頑張り続ける」必要がない。

どちらの「自信」を持つ方が幸せになれるのか、お分かりいただけただろうか。

現在を生きているあなたが想像できる範囲の未来など、ただの希望にすぎない。
「これまでのあなた」という過去の実績からその脳みそがまるでエージェントのごとくあなた自身を判断し、評価し、点数化し、見せる「これくらいなら」というビジョンである。

試しに「想像していなかった未来」という投稿企画に参加されている方々の記事を読んでみてほしい。その殆どが「未来は想像していた通りになど決してならない」という内容ではないだろうか。

そう、それは 当たり前 なのである。

あなたも私も日々変化している。アップデートされている。明日のあなたが今日と同じでいられる保証などない。明日ですらそうなのだから、未来などより一層思い通りにならなくて当然ではないだろうか。その当たり前を受け入れるか、受け入れないか、の違いである。

あの頃想像していた斜め上をいく体験をしたけれども、なんだこれもいいじゃないか、アッハッハそうきたかぁ〜、人生って不思議で面白いなぁ〜、ねぇねぇみんな聞いてくれよ〜
そんな風に受け止められる、予想外の体験を不特定多数の方々が読むようなインターネットに公開できる、そんな自分への愛が揺るがずに生きている人間は「自分を信頼している」のである。

そして自分を信頼していると、想像を超えた道のりの結果、紆余曲折ありながらも自分なりの幸せに辿り着く人がとても多い、ということを付け加えてこの記事を締め括らせていただこう。




#想像していなかった未来

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