「見返りなんて求めた事もない!」はずだった。
ここの所のモヤモヤとしていた事に対して、
回答のような、
突然の耳元での囁きにハッとした。
『あなたいつも、何するにしても見返り求めないじゃない?
「自分がしたいからする。
相手がどう思うかは相手の課題。」
それがあなたの口癖だしポリシーだよね?
なのに何故、仕事には対価を求めるの?』
…っ!!!
確かにそうだ…
ここ最近、
「お金はエネルギー」
「お金は『ありがとう』の代わり」
そんなスピリチュアルリーダーの言葉を腑に落ちるところまでわかってきていたつもりだった。
でも今度は
「どうやったらありがとうと言ってもらえるのだろう?」
持ち前の完璧主義が炸裂し、
何の道だってプロになるのは簡単じゃない!
と、
自分の非力さにズドンと落ちまくって、
「ありがとう(お金)貰うって簡単じゃないからこそ、みんな大変な思いしてるんだよね…」
ひょっとしたら以前よりも増して余計に考えるようになってしまい
「ドツボにハマった感」があったのだった。
AI化やベーシックインカムなど、
“仕事”への価値観が大きく揺らごうとしている今の
仕事への向き合い方について、
モヤモヤが晴れる体験をしたので、
それをシェアしてみたいと思います。
私は基本的に相手に見返りを求めない。
「求めない」というのとは少し違うのかな…
相手からの見返りが欲しいからこれをする、
と言うのをほぼ考えたことがない。
自分にとことん嘘がつけない質と言うと少し言い過ぎだろうか..?
人にものをプレゼントしたり、
サプライズを仕掛けたりするのはわりと好きな方で、
「これプレゼントしたらめちゃくちゃ喜んでくれるかな?」
とか、
「どんな反応するかな?」
とかはすごく考えるのだけどそれすらも、
あくまで自分がワクワクするからするのであって、
とことんこだわってプレゼントを選んだり、
これだ!と思う理想のものが見つかるまでいくつも店を訪ねて歩き回ったりするのは苦にならなかった。
(物によっては相手にとってありがた迷惑な事もあったかもしれないけど!)
「ありがとうを言われたい」
とか、
「同等のお返しを貰いたい!その為にも良いものを!!」
とは思ったことがなく、
これを書くにあたって今初めて
「そんな感覚も世の中には存在するのかもしれない?」と思った次第)
その”せい”なのか…
どこにも属せず(属さず?)
いつも独りだった。
例えば世の中の常識である、
出産祝いとか、
冠婚葬祭の引き出物とか、
おそらく始まりは
「大変な時だろうからせめて、少しでも足しにしてね」
と言うような心遣いだったはずが、
いつの間にか、
面倒な社交辞令となって「しきたり化」してしまっているように思う。
その類のことはとても日本には多いように思えて
面倒だし意味あるのかな?と違和感を抱いてしまう。
少し脱線してしまった。
話を戻すと、
きっと友人へのプレゼントやサプライズだけでなく、
“仕事”に対しても
「いつもの自分」であるべきなんだと囁かれた気がした。
「自分がしたいと思う事をする。
相手がどう受け取るか?は相手次第。」
”仕事”でも遊びでもどこでも夢の中でも、
このいつもの私の”スタンス”で、
変わらずにいる事。
それがきっと私の「在るべき姿」なのだ。
そして、
自分の仕事(自分がしたくてする事)には責任を持つ。
責任を持ってしたい事をする。
きっとこういう事を「コミット(commit)する」と言うのだろうと思った。
手に取った人や体験した人の胸がほわっと暖かくなったり、
じわっと心が震えたり、
表情がほんのひとときパァッと明るくなるような一瞬をとどけたい。
相手の受け取った時の表情を想像して、
その一瞬のために、今できる全身全霊を捧げたい。
対価とはきっとそれについてくるもので、
それを先に求めてしまうと私は私でいられなくなってしまう。
順番が逆だったんだ。
それをわかってる”あたし”が、
あれこれ頭で考えては試行錯誤する”私”を引き留めていた。
だからこんなにもこの数年苦しかったんだな、と、
気づかせてくれた。
もちろん生活の為、この身体で少しでも沢山の経験をする為に、
健康で豊かでいたいと思う。
そう望むことは
「順番さえ間違っていなければきっと叶えられる」と、
今はそんな確信めいたものが心に浮かんできている。
自分を使って実験してみよう。
人は自分のままでいる時に必ず神様から応援される、
という事。
どこでも、嫌われても、
自分でいる事がいちばんの”仕事”なのだと言う事を。
また書きます。
Reaching Out♡理詠でした☺︎