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「俺の理想の死に方」は、誰かの介助の下にある。在宅医療、終末医療ー死に方を考えるのか、死なせ方を考えるのかー『痛くない死に方』高橋伴明監督作品ー

『心の傷を癒すということ』の精神科医に続き、在宅医療、終末医療に関わる医師を、柄本佑が演じる。

『心の傷…』の安先生は、自らがガン死してしまうが、『痛くない…』は「人の死に方と看取り」についての映画であり、実在の在宅医療に携わる長尾和弘医師の原作監修を受け、高橋伴明監督が脚本も書いている。

前半は「痛い死に方」に見舞われる主人公、若い医師河田。
既存の延命治療の残酷さ、データだけの医療の浅はかさ、在宅死を選ぶとは標準治療の医療から見放されることなどなど…家族は、さまざまな障壁の前で困難ぶつかり、末期の父親を介護する娘の献身的な愛と絶望、病人のリアルな痛み、苦悶が、これでもかと描かれる。

後半は、河田の成長とともに「痛くない死に方」を描く。患者は宇崎竜童演じる末期ガン患者、本田彰。いなせな大工。望んだ家に帰り、徐々に進行する病状ートイレにいけなくなる、おむつになる、浣腸される、だんだん食べられなくなるーを受け入れながら、痛みをコントロールする治療により、ゆっくりと死に近づいていくことができる。

「枯れるように死んでいく」

自然死に近く、一番苦しまない死に方と、原作者の長尾和弘医師が語る終着点は、高齢者の介護施設、看取りをしている施設の人たちからも同様に語っているのを見聞きしたことがある。本田は、静かにまさに、枯れるように最後を迎える。

「完璧だよ」とその死に顔に、河田は語りかける…。

現代医療の抱える負の側面、尊厳死の大切さ、共有できる問題意識はある。長尾医師のような庶民のために働く医師、データのみでなく目の前の生きている人間を見つめる医療は、本当に大切だとも思う。共感する部分は多い。でも、きっとだから映画に対する疑問もまた大きかった。

「痛い死に方」の当事者である父親と娘の関係ー老父を「パパ」と呼び、夫とともに献身的な介護をする。その愛情は、理解できるとしても、在宅で中年の娘一人で末期の患者を介護するー努力を惜しまず完璧を求める娘は、疲弊し、いったいいつ眠っているのか、自分の時間はどこにあるのか、協力者は夫しかいないのか? 

「痛くない死に方」の当事者は、全共闘世代で学生運動の武勇伝を語り、ドロップアウトで大工になった。妻は大谷直子で、きっぷの良い、これまたいなせなお姉さんである。「あんた」を呼ばう態度はきついが、こちらも献身的に介護し、せつに夫を愛する。

長尾医師が体験した実話なのか、伴明監督が脚色したのかにせよ。もしも登場人物の立場が逆の設定だとしたら。物語は、いったいどのように展開されるのだろうか。

監督が、なぜこの映画を撮ろうと考えたのかは、わからない。が、映画を一見して、団塊世代の男性が70歳を過ぎ、自らの死を思うに至り長尾医師との出会いから在宅医療と自然死、尊厳死のあり方を考え、現代社会における「人間らしい死に方(=生き方)」を描いてみたのかな、とは思った。

イキがりながら死を恐れながら、しかし受けいれる覚悟を持つ、宇崎の演じた本田彰という人物は、監督自身の投影なのかもしれない…のだとしても。

映画が描いているのは「俺の理想の死に方」でしかないのではないのか。娘に愛され、妻に愛され献身される、ちょっとわがままだけどカッコいい男。裸にされ、尻を拭われ、失禁し、もの言えなく、食べられずー死に際の悲壮な姿、老齢の赤裸々な姿をさらしながら。

その汚物を処理し、時間と命を削るように「父」や「夫」の世話をしているのは、看護師を含め「女」だということに、監督の視線のメスは、なんら入っていない。ただ純真な、彼女らへの賛美だけがある。

社会的介護には、家族ー主に妻、嫁、娘、家庭の主婦や女性に委ねられてきた荷重な負担を、社会的ー地域を含めた複数の力によって分担する目的がある。その介護施設等に非人間的な問題も多く深くあることもわかるけれど。

だからといって「人を好きになれ」と語る長尾医師の唱える在宅医療、自宅で迎える自然死、人間らしい死に方ーつまりは生き方ーが、家族や女に負荷を押し付けるものであるはずもない。地域で共に助け合い、都度都度考えながら、共に生きようとすることが、おそらくは、本当の主題なのだ。

映画は、結局は、監督のものだから。映画に見えた男と女への視線の限界は、高橋伴明という高齢男性ーひいては、男女問わず全共闘世代に垣間見られる傾向、ジェンダーや性に対する意識の正直な限界ではないのかと、一回り下のわたしは、想像するしかない。

また「病院で死ぬこと」は、まるで地獄のような死に場の描写は、終末医療、ホスピタリティを唱え、実践している病院もある中で、ちょっと扇情的すぎるのはないかとも感じた…伴明監督らしく、誰も描かない描きたくないだろう過酷な場面を描こうという態度なのかもしれませんが。

と、一通り文句をつけてみたところで。

映画には、もう一つ、重要な主題がある。

在宅で延命治療はせずに、人が死ぬ間際の描写について。

「痛い」ほうも「痛くない」方も、最後の最後、死に際の様子は、変わらない。大きく息をつぎ、息をつぎ、命が止まる。

この描写は、リアルだと思った。人間の死に際には遭遇したことは未だにないが、猫の死に際、断末魔には、幾度か立ち会っている。
19歳で腎臓ガンになり寿命の尽きたチビは、それこそ枯れるように死んでいった。去年リンパ腫で死んだみーちゃんも飲まず食わずになって十日ほども生きており、死ぬ前日には、水のような下痢を数回して、ほんとうに枯れていった。

混濁状態になってから静かだが、断末魔に大きく呼吸を繰り返し、苦しむ時間がある。映画では「壁」と言っていた。まるで同じです。

当たり前に猫と人間は違うけれど、多分、その最後は、同じなんだろうと思う。自然に命の尽きるー流れが止まるシステムっていうのは。



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