見えない境界線:「インクルーシブ教育」について考えてみた
小学生のとき、クラスに知的障がいのある女の子がいました。学習内容はほとんど理解していないようで、授業中もじっと座っていることができませんでした。教室内をたえず歩き回り、あちこちの生徒のところに行っては話しかけたり机の上のものをさわったりしていました。時々奇声を発することもありました。でも教室を抜け出したりすることはありませんでした。教室が居心地よかったのかもしれません。
彼女のそんな行動をクラスの生徒はあまり気にしていませんでした。日常的なこととして受け入れていたように思います。担任も時に注意したり、特別な課題を与えたりすることがありましたが、黙って「見守って」いることの方が多かったです。私も彼女が他の生徒とどこか違うと感じていましたが、それが「障がい」であるという認識はありませんでした。給食も彼女といっしょに食べましたし、休み時間もいっしょに遊びました。遠足や修学旅行でも行動を共にしました。お互いに意地悪することもあり、けんかもしました。彼女に意地悪をされ、大喧嘩をしたことを今でも覚えています。でも彼女を「排除」することはありませんでした。対等な付き合いだったと思います。
クラスの中には他にもポリオの後遺症で脚が不自由な友達や聴力障がいのある友達がいました。特別支援学級などない時代です。彼らがクラスにいるのは当たり前でした。必要なときは彼らを手助けしましたが、勉強などで彼らに助けてもらうことも少なくありませんでした。一方向的な手助けではなくウィンウィンの関係だったと思います。今思えば冒頭の友達からも私は多くのことを学んでいたのだと思います。「インクルージョン」や「インクルーシブ教育」という言葉こそ耳にしませんでしたが、当時の学校はある意味で「インクルーシブ」だったような気がします。
けれども、教員になってからは印象が変わりました。勤務先の学校にも障がいのある生徒は何人もおり、知的障がいのある生徒のための特別支援学級がありました。私は一般クラスの担任でしたが、特別支援学級の生徒とは日常的に関わっていました。クラスにも病気の後遺症で身体が不自由な生徒がいました。他のクラスには進行性の病気で車いすを使っている生徒がいました。そうした生徒にも十分とはいえないまでも配慮や支援がなされており、周りの生徒も何かと手助けをしていました。そんな中、私の中には常に小さな違和感がありました。それは目に見えない「境界線」です。
周囲には彼らを特異な存在として見る人が少なくなかったように思います。それは生徒にも教師にも見られました。障がいがあるかないかで生徒の間に「線引き」が行われているように感じたのです。障がいに応じた支援や指導は必要ですし、時に別室での対応が必要なこともあります。それは彼らが「特殊」だからでなく、そうした対応が必要だからです。けれどそれによって生徒の間に「線引き」が行われ、支援する側とされる側という区分けが行われているように感じました。そしてそれぞれの立場が固定し、前者が後者に何かを「してあげる」という状況が生み出さることが多かったように思います。「大変だから手伝ってあげる」「できないから代わってやってあげる」「無理だから免除してあげる」という一方向的な支援や配慮です。そして「してあげる」ことによって支援する側は満足感(今風に言うなら「やってる感」)を持ち、支援される側は負い目を感じます。ウィンウィンの関係ではありません。障がいを個性のように言う人がいますが、私はそれにも違和感を覚えます。個性は賛美されることはあっても、障がいは賛美されません。少なくとも障がいのある人が自分の障がいを個性と言う人に出会ったことはありません。
「境界線」はときに「排除」につながり、「異なる」ことが「排除」の理由になることがありました。最初に紹介した小学校時代の友人は現在だったらクラスの「お荷物」扱いされ、授業の邪魔になるとして「排除」されているのではないかと思います。それは「教育的配慮」や「合理的配慮」という言葉で理由づけされることもあります。けれども「適切な対応」や「教育的配慮」「合理的配慮」と言いながら無意識のうちに人間の価値まで「線引き」しているように感じることさえありました。極端な例が津久井やまゆり園で起きた事件です。「これでいいのだろうか」という疑問が少しずつ私の中で積み重なっていきました。
私は特別支援学校や特別支援学級を否定しているわけではありません。すべての生徒を同じ場で教育するのがよいとも思っていません。「インクルーシブ教育」と言いながら「場」だけが同じであって適切な対応がなされていないことはよくあります。適切な対応をするために分離することも時に必要です。でも、「インクルーシブ」=「みんないっしょ」と考える人は依然として多いように感じます。
「インクルーシブ教育」の対象は障がいのある生徒だけではなく、外国から来た生徒など言語や文化の背景が異なる生徒、経済的に困難を抱える生徒、LGBTQ、病弱生徒や病気の後遺症を抱える生徒などあらゆる要素を含めて対応する必要があると考えます。表面上は問題がないように見えても、家庭や学校で居場所を見つけられない生徒、集団生活が不得手な生徒、学習上の困難を抱える生徒など教育的配慮の必要な生徒はたくさんいます。でも、そうした生徒に適切な対応がなされているかというと決してそうではないように感じます。制度面でも日常的な対応においても問題を感じることは多々ありました。個性重視が標榜される一方で他の生徒と「異なる」ことが時に不利に働いていると感じることもありました。私が教員を辞めて研究を始めた理由のひとつがここにあります。
私が住む県では高等学校での「インクルーシブ教育」を推進し、特に知的障がいのある生徒のための「インクルーシブ教育実践推進校」を設置しています。
事業を推進させるため県はたびたびフォーラムを開催しています。私も何度か参加しましたが、そこで感じるのは「障がいがあっても大丈夫ですよ。必要な支援はしてあげますからね」という県の姿勢です。「インクルージョン」とはちょっと違うなと感じています。「インクルーシブ教育」のあり方について今は後も考えていきたいです。