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沖縄再訪:沖縄戦激戦地の案内板から読み取れるのは?
沖縄戦激戦地のひとつに「シュガーローフ」(「慶良間チージ」)と呼ばれる場所があります。那覇市の沖縄都市モノレールおもろまち駅の西側にある標高46メートルの丘で、現在は巨大な給水タンクが設置され安里配水池公園(あさとはいすいちこうえん)と呼ばれています。
丘の登り口↓
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反対側の階段からも登れます↓
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丘の上の巨大な給水タンク↓
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展望台からの那覇市の眺め↓
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「シュガーローフ」というのはアメリカ軍が攻撃目標としたすり鉢状の丘に対してつけた呼び名です。米軍による激しい攻撃で地中の石灰岩が露出して砂糖パンのようになったことから「シュガーローフ」と呼ばれるようになったと言われています。
丘の上には「沖縄戦の激戦地」と記された案内板が設置されています。
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説明文は次のように書かれています。
沖縄戦の激戦地。字安里(あざあさと)の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝(ようしょう)で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
とくにここ慶良間チージでの攻防は、1945年(昭和20)5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。
米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以降、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は、6月末まで続いた。
記述の中で私の目に留まった部分があります。次の2行です。
米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
説明では米軍の死傷者数は示されていますが、日本側の死傷者数は示されていません。わからないということなのでしょう。ここに沖縄戦の本質が見て取れます。犠牲者の数すら把握できていない沖縄戦とは日本にとっていったい何だったのでしょう。名前も年齢も消息もわからないまま「多数」のひとりとして葬り去られている犠牲者の霊はどうなるのでしょう。このまま弔われることのないまま忘れ去られていくのでしょうか。日本および日本軍の責任の重さを感じずにはいられません。
帰り道でホームレスの人に会いました。公園で生活しているようで道路わきには生活用品が置かれていました。
沖縄戦とは別の不条理をそこに感じました。
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