論考【逆説 子が親を育てる】
ひとはみな 生きる習いとして先代を見本にする。ほかにどうする術もないので この鉄則から誰も外れることはできない。それがすべてにおいて正しいのであれば なにも躊躇いはしないだろう。
しかし現実そうとはかぎらない。先代はいろいろと間違いも犯してきている。そのまた先の次代が過ちに気づき、補正されたものを習うなら自身が道を踏みはずすこともないだろうが、厄介なのは比較的新しい先代が考案した習わしだ。
ほんとうにそれが合っているのかどうか、正しいことなのかどうか、それは後世になってみないとわからない。つまり現代を生きるわれわれにはそれを知る術がない。
とりとめなくそんなことを考えているうち わたしはすこしトリッキーな見解を得た。
親が子を育てる
あたりまえのように振舞っているが、はたしてそれは正しい考えかただろうか。成長するにつれ逆転もあり得ないだろうか。
子が親を育てる
子は親の心配を他所に 放っておいてもすくすく育つ。もちろん手塩にかけて丹念に育んだほうが伸びが良いだろう。けれども子は 親の思い通りにはならない。かならずどこかで親を乗り越え自分で成長しだす。
すると立場が逆転するのではないか との疑問がわいてくる。子のほうが 親より世のことをよく知っていたり 近代技術を使いこなせたりする。老後は世話を焼いてもらう立場になる。お世辞にももはや育てる立場ではない。しかし先代は、それでも親を大切にしろだの上から偉そうにいう。たしかに美徳だが、当然というのはおかしな話ではないか。
もはや育てるではなく、育ててやった恩でもって育てられるお情けの立場なのだから、下に降りて敬う側なのに。しっかり育てもしなかった親が、老いてからしっかり面倒みろ(育てろ)なんてどう考えても虫がよすぎる。
この流れは永劫普遍であり、この先もずっと続いてゆく。ただ価値観を変えることはできるはずだ。
下手な常識に甘んじて ヤングケアラーとして毒親の育てを請負うのか 育ての分に見合う育てを親に返すだけなのか。
情けは人のためならず
本来は美しい教えであるが、儒教を重んじる日本において これも先代が掲げるひとつの縛りなのかもしれない。使い道によっては毒親の逃げ口実となる。甘んじ都合よく目下に多用する大人には注意が必要だ。
弱者を装い、子の弱みに漬け込んでいるだけかもしれない。
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なにもこれは家族にかぎったことではない。親子のように顕著に逆転はしないにせよ 考えかたは他の弱者との関係性と同じだ。弱者を助ける立場にありながら 逆転し 弱者が強きに転じることもある。ルサンチマンを知るひとならよくよく理解できることだ。
もちろん目上を敬うという先代の素晴らしい教えを一概に否定はしない。ただそれを伝家の宝刀みたく大人が常識としてふりかざすのはちがうと言いたいのだ。[育てる側と育つ側] [助ける側と助けられる側] つねに立場は二点反転する。
【互助】が基本なのである。
助けると助けられる。「助け合い」とはつまりそういうこと。一方向で助けてもらうばかりじゃ助け合いにはならない。
ヘルプばかり訴えてる毒親に言いたい。
あなたは誰かを助けましたか?
待ってるだけじゃ誰も助けには来ない。まずは助けることから