「歎異抄」を読んで
2009.11.01 up
正確には歎異抄の原文を意訳した
五木寛之の文章を読んだのだが‥
いろいろ本屋で検討した結果
どれも堅苦しく難しそうだったので
手っ取り早く読めそうな五木の本にした。
かなり文章の扱い方が大きく
こんなんでよく金とるよなァみたいなぼやきもあったが、
年配の方には逆に読みやすくて好評なのかもしれない。
で、「歎異抄」の世界にはじめて触れた感想。
なるほど これはたしかに良い読物である。
さらに自分なりの解釈で結論付けると
歎異抄とはつまり悪者をも擁護する思想ということになるだろうか。
M氏にそのことを話すと 悪いことして救われるんだったら
みんな悪いこと平気でするようになるんじゃないの?
との疑問を投げかけられたのだが
たしかにはじめは私も同じような気持になった。
だが、親鸞の説く、悪人正機説は そういう単純なものじゃなく
もっと深いものだということをこの本で知った。
つまり悪いことは悪い
そこには必ず罪はあるのだが
改心して念仏を唱える心あらば
悪者さえ浄土できるのだ、と
いろいろ考えさせられる意見だった。
じつは最近、私も同じようなことを考えていて
人間は誰しも善と悪の両方を
均等に併せ持っており、
その生活環境、人格形成において
善めいた人間になったり
悪めいた人間になったりするだけなのではないか、と
たとえどんな酷い人間にみえても
すべてが酷い人間などこの世にはいないはずだ。
良い部分もあれば悪い部分もある。
許されぬ罪は数あれど
その罪を犯した人間のすべてが悪いわけではない。
社会にも一因は必ずあるのである。
故に悪人であれども改心した者は
救われねばならない、私もそう思う。
これも最近の傾向として
好からぬことだと独り顔をしかめているのだけど
人間どもは何でも完全に二極化ニ分化したがる傾向にあるのではないか
これは善、これは悪、
外は暑い、だから室内はガンガン涼しく
コイツは暗いから合わない、コイツは明るいからオモロイ奴
つまりは、決め付けである、偏見でも何でも
自分のなかで定義付けをしなければ
落ち着かない傾向にあるのでは、と。
日本には古来から和を尊ぶという
素晴らしい文化があるはずなのに
一方で ファジーが許されなくなっているのは何故だろう。
それはアメリカ的なイケイケ主義が
どんどん日本に持ち込まれて
それがクールでホット
(この言い回しもなんだか矛盾していていかにもアメリカらしい)ということになったのだろう。
私は、単純に二極化させることなく
どちらもニュートラルに扱える人間ほど
尊敬に値すると思っている。
たとえば宮崎駿は
時にナウシカやもののけ姫などで 悲観的世界を示すが、
また一方でトトロやポニョ、パンダコパンダなどで 楽観的世界も示す。
一番 人間として信頼できる方だなと思う。
世の中には ただひたすらハッピーばかりを
無理して必死に歌ってるミュージシャンがいたり、
逆に暗い世界ばかりを悲愴な顔して
彷徨っているアンダーグラウンドシーンの作家もいる。
どちらが正しいとか間違ってるとか
そういうことじゃなしに
私は冷静にどちらも平等に目を配れる人間になりたいのだ。
暗い世界ばかり描いてる人間でもいい。
明るい世界ばかり夢見ている人間でも別に構わない。
でもちゃんと両極の一方を受け容れる姿勢が欲しいのである。
それが「歎異抄」の云わんとする思想なのではないかと
私は感じたのだった。
この世に絶対悪や絶対の正義などありはしない
人は常にファジーであり 優柔不断であり
アンバランスであり アンビバレンツな存在
時に怯え 時に不安を口にし 愛を求める
それが ありのままの人間の本当の姿なのだと。