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演劇部だった皆さん、「ごめんなさい」、でも今でも演劇が好きです

「部活」。

学校生活の中で、人によってこれほど、感情が分かれるワードもそんなに多くはないのでないか。

ある人にとっては、「青春のすべて」だっただろうし、ある人にとっては「挫折の日々」だっただろうし、人によって感情は分かれるだろう。

私は‥例えば、「部活で進学先が拓ける」タイプではなかったし、中高の部活は中学が剣道部、高校が演劇部だったが、いずれも挫折感の方が当時は大きかったし、そして大学の部活は楽しすぎて、宝石のような想い出に溢れているが、結局「サークル」。極論、箱根駅伝でタスキをつなごう!!的なガチな感じはなく、あくまで楽しみ、その中で今思うと大事なことを学んだなあ、と言う感じだった。だから、結局「部活・サークル」に所属していたことが、今の私にどう繋がっているのか、よく分からない面はある。

しかし、高校の演劇部や大学の「児童文化部」と言うサークルでは、今思うと確かに、「あの日々が無ければ、今よりもっと人と関われない人間だったかも・・」とは思う。

私の人生、要所要所で恵まれた人との関わりがあり、そのおかげで大変なことがことが多くても今、前を向いて生きながらえていられるのだと思う。

今回から、2回に分けて、高校の演劇部、大学の「児童文化部」と言うサークルの事を振り返る。今日は高校の演劇部について。

そもそも私は幼少の頃から、親に連れられて、今も全国に組織がある「おやこ劇場」というものに入っており、演劇好きの下地はあったように思う。

中学の頃は「予餞会」(3年生を送る会)で・・まあ、あえて言うなら「異彩」な役を担当したりして、人前で目立つのもいいなあ~とその時、思ったのを30年経過した今でも覚えている。

私は中学から静岡の私学で、高校も半分エスカレーター式にそこの高校に進学したのだが、中学時代は剣道部だった・・からこそ、最初から剣道部に入部する意思はなかった。当時は、その高校は県下屈指の強豪で、中学の部活時代、同じ道場で高校の稽古を見ていても、殺気すら感じていたから。顧問もおっかない人達だったな・・。

というわけで、「帰宅部は暇だし、高校時代に何かを残したいな‥」との思いから、演劇部に入部した。

先輩や同級生、いろんな個性が存在した・・結構、こういうのは演劇部あるあると言われているが。

私自身、今も人の気持ちをあまり理解できないたちだが、この頃は今よりも場に合わせることが難しいたちだったので、先輩や同級にも叱責されたりブーブー言われたりする中で、今思うと、足りないものを学んでいた気がする。

入部して最初の公演が鴻上尚史原作の「天使は瞳を閉じて」。

(この頃、高校演劇では鴻上尚史と成井豊の作品がもてはやされていた。)

あの時の、公演1週間前になると21時頃まで練習していたことや、バスケ部やバレー部も帰った後の体育館の風景、本番は島田市の「おおるりホール」で開催されたこと・・など、今、記憶がよみがえっている。

そして1年生の夏休みは盛んに部活が行われ、無理のない範囲で参加していた。(ハードな運動部なら部活最優先だったろうけど)

夏休み明け、念願がかなう。

学園祭の一環である公演で、またしても「異彩」な役をもらい、その効果はバツグンで、公演後、昼休みに購買に行くと「頑張ってるか?」と、陸上部の先輩にいきなり声を掛けられたりした。

ところが、ここが「無意識の罠」だったのかもしれない。

私はこの頃、幼い頃の成功体験の少なさからだろうが、とにかく「ピンチの時にこその努力、そしてコツコツやること」その姿勢に欠けていた。

冬公演をのらりくらりと終え、2年生になってしばらくすると、新しいクラスでは遊びを覚え、そして先輩たちが引退して、同級生とぎくしゃくすると、私は部をさぼるようになる。

夏休み、学園祭公園で役をもらっていたのに、サボりまくり、同級生の部長に大激怒されたり、心配した小学校時代も一緒だった同級生から電話もらったり・・

なにより、幸か不幸か(以前の記事で書いた記憶があるが)当時、クラス担任はその年から演劇部顧問になった先生だった。掃除の時間にもたびたび部活に来るよう言われたし、今なら文章化できるが、当時は申し訳なくて、先生の国語の授業や、「担任とクラスの生徒」として接している時間も、後ろめたかった‥数少ない友達が居なかったら、いよいよ学校タコり族(タコり=静岡弁でサボる、ちなみにタコりマンと言われた人は、まず仲間たちから快くは想われていない証拠)になっていた可能性もある。

結局、私は3年になっても、「たまに部室に現れる」くらいの復帰しかしなかった。

隣の高校との合同公演や、同期の3年生最後の公演は応援に行ったが、「部活に燃焼した」高校生活に出来なかったことは、今では心残りではある・・

でも、それも青春の1ページ。

でも、この時、今思うと、多くの人たちが私を「演劇を嫌いにしないでくれた」と思っている。

同期の仲間と、いろいろ面倒見てくれた先輩は私が幽霊部員になってからも遊びに巻き込んでくれたり、大きな演劇公演に誘ったりしてくれた。

同級生同士で結婚して、居酒屋経営している夫婦がいるのだが、2年前、静岡に行った時に行ってみたら、あの頃と変わらない、「おれおまえ」的な感じで迎えてくれた。20年以上たっているとはいえ、あんなに困らせた奴、部の持て余しもの状態だった俺に開口一番「変わってないね~」と、あくまで「ひとりの人・同級生」として接してくれた。これはとても嬉しかった。

顧問で担任だった先生にも、その後、関係が続き、節目節目に気づきのある言葉をもらえている。これは、決して「誰もが感じられる当たり前」ではないと思う。私はきっと幸せだ。

この時期、燃焼しなかった後悔は今でも大きいが、今でも私が演劇に大きな関心を持ち、静岡のプロ劇団「SPAC」(宮城聡さんと言う世界的な演出家が率いている)の公演を年1度は観に行く、そんな人間でい続けられるのも、この部活から遠ざかった時代にも、「1人の人」として私を見て接してくれた人たちのおかげだろう。

後悔は大きいけど‥

これからもひとつひとつ、そんな人たちの思い出も胸に、頑張っていきたい。

※悲報・・母校の演劇部はすでに廃部となっているのは、残念なり

#部活の思い出


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