noteに登録して数か月、見切り発車で初めて、いくつかの記事をすでに書いてきたが、ここで改めて自己紹介の記事を書こうと思う。 1・来歴1・生誕時期 1979年10月生まれ 2,出生地と育った場所 岡山市で生まれたらしい・・が、父親が転勤者であったため、岡山での記憶はゼロ。小学校前半まで富山市で育ち、小学校後半から高校卒業まで静岡市で育ち、実質、静岡が故郷だと思っている。(ただ気質は静岡人のものは、やはりないのだが)その後、秋田の大学に進学し、その後一度就職するも数か月
私は、結論から言うと「何者でもない」。 しかし、今、回り道の果てに、幸せをつかみつつある実感がある。 そもそも、私は気づいたのは25歳の時だが、生まれつきに発達障害があり、そのために精神疾患の患者にもなり、その頃追っていた、「知的障がい者福祉」の仕事の夢を諦めて、一度は親元の東北地方に戻らなければならなかった。 悔しかった。 自分の身を、「オール3」に生まれなかった自分の不幸を、親を、恨んだ。 その頃は、ドラクエ3の闇の世界みたいに周りの景色がどす黒く見えていた。
みなさんはスポーツを観るだろうか。 昔は「巨人・大鵬・卵焼き」(その時代、関西のオヤジ方は「こちらは阪神・柏戸・イナリ寿司や!と息巻いていたとかなんとか?)といって、まあ、ようは、野球や相撲のスポーツは人々の興味の中心だったという。 今45歳の私も、小学校4年生の頃からプロ野球や高校野球に興味を持ち始めたと記憶している。 しかし、その時期に興味を持ったものがもう一つ、それは大相撲だった。 入門のきっかけは私が小4だった1989年11月場所千秋楽、小錦が琴ヶ梅を破って遂
私の人生設計は、生まれながらに発達障害を持っていたこと、そして親が転勤族であったこと、によって、「波乱の人生」が運命づけられていた気がする。 最初に結論を述べてしまおう。 私は、今、ほんの10年前まで、まさか住むことになろうとは思いもしなかった、神奈川県鎌倉市に単身、住んでいる。 そして、昼間の所属先もあるのだが、その一方で、遂に、クリエーター(ライター)としての一歩を歩み出した段階であり、地域に関する記事を今後、多く書いていくので、ほんの数年前まで、住むということが信
概要この小説は、夭折の芥川賞作家・柏原兵三氏(1933-1972)が戦時中の疎開体験を元に書いた自叙伝的作品である。主人公の少年は東京の子だが、父親の故郷である富山県の村へ疎開し、そこで残酷なまでの「田舎」の子ども社会を体験する。後に同様の経験を持った、富山県出身の藤子不二雄A氏が柏原兵三氏の没後に「少年時代」として連載漫画として世に送り出し、1990年には篠田正浩監督で映画化もされた。 なぜ、この小説が欲しかったか私は中学生の頃に「少年時代」の原作漫画を読み、その後に
部活時代を振り返る私的な企画第2回目、今回は大学時代のサークルについてである。 小学校後半から高校卒業まで静岡市で育った私は、秋田市の大学に進学した。 なぜ、関東をすっ飛ばして秋田に? 「経済学部」といえば分かるように、別に「オンリーワンな学部」を志向して進学したわけではない。そもそも大学に進学した理由は、子どもの頃、友達と遊んだ経験が少なくて本と戯れていたような子供だったので、親も「大学へ行ってモラトリアム期間の中で自分を見つけてほしい」と思っていたようで、私も確固た
「部活」。 学校生活の中で、人によってこれほど、感情が分かれるワードもそんなに多くはないのでないか。 ある人にとっては、「青春のすべて」だっただろうし、ある人にとっては「挫折の日々」だっただろうし、人によって感情は分かれるだろう。 私は‥例えば、「部活で進学先が拓ける」タイプではなかったし、中高の部活は中学が剣道部、高校が演劇部だったが、いずれも挫折感の方が当時は大きかったし、そして大学の部活は楽しすぎて、宝石のような想い出に溢れているが、結局「サークル」。極論、箱根駅
先日、プロ野球ドラフト会議が開催された。 私はプロ野球の「推すハコ」としては楽天イーグルスなので、明治大学の宗山内野手の獲得はビックリするほど嬉しかった。 けど、他に感慨深い指名が、いずれも他チームであるが、あった。 それは、 ・自分が現場でプレーを見たことのある選手がプロ入り内定 ・自分と同じ高校出身の選手が支配下で指名 まず、神奈川大学のショート、庄子選手がソフトバンクに2位指名。 私はアマチュア野球も好きなので、神奈川に来てから、高校野球はもちろん、横浜ス
(画像・静岡県富士市) 私はあと数日で45歳になる。 私の育ってきた時代と言うのは、「先生」と言われる人たちが、実際今よりも一般的にすごい存在に見えて、生徒たちとの「主従関係」を作る傾向があったように思う。 特に私は、中学から私学に入り、私は入寮していなかったけど、一部の男子生徒は平日は寮生活を送っていた(・・ちなみに、寮生は我々の世代でも途中で激減して中学卒業時には当初の半分以下の人数、我々が卒業した翌年に閉寮した・・と言えば、まあ、寮がどんな環境だったかは、お察しいた
1,雄大な景色(少年時代の世界観) またまた続編である。 13日の午前中だけ研修で、後は立山山麓の上市町にある、研修を主催した夫妻の自宅でもある古民家に移動して、いろいろ皆で語りながら合宿だった。 立山連峰に近い、上市町の夕焼け写真を掲載。 もう、言葉のいらない美しさだった。 日頃の都会疲れをはっきり自覚している私にとって、求めていたのはこのような光景だったのかもしれない。 翌朝、散歩した時に、綺麗な空気をたっぷり吸いこみながら歩いた田園地帯の写真がこれだ。 す
1,富山城址公園にて様々な感慨 前回記事の続きである。 10月12日土曜日、この日から2日間の研修だ。 研修初日の前に、幼い頃、母親とよく訪れた富山城址公園を散歩した。 富山城址公園には、幼い頃、よく母親に連れてきてもらっていた記憶が残っている。 当時は、SLの大きな模型があり、子どもたちはその中に入って遊んでいた。 観光案内所で聴くと、今はSLの模型は、富山駅北口に移設されているという。 城址公園内を散歩していると、幼い頃に見ていた記憶のある、大きな銅像があった
1,富山に行くということへの「感慨」 ※(見出し画像 高岡駅前 大伴家持像) 11日から14日まで、IPS(意図的なピアサポート)というものの勉強会で北陸の富山県へ行っていた。 私の父は転勤族だったが、私が1歳から小学校4年の頃までは富山市に勤務しており、私にもかすかに当時の生活の記憶が残る。 今回、noteには、研修そのものの学びはもちろん後述するとして、富山へ行ったことでの見聞したものや美味しいもの、などの、いわば「旅行記」から書いていこうと思う。 結論
昨日はTHEYELLOWMONKEYの吉井和哉さんの誕生日だ。昨日で58歳になった。 私は今、節目節目や、人生に迷ったときに吉井さんが主に作詞作曲しているTHEYELLOWMONKEYの楽曲に「人生を進んでいく」気力をもらっている。 元々は高校生の時に、あまりにも有名な「JAM」の (歌詞引用) 外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは嬉しそうに 乗客に日本人は いませんでした いませんでした いませんでした・・ という部分が凄く刺さったのが最初だった。 自分
私には生まれ故郷がなく、転勤族の息子である。 育ったのは北陸地方と静岡県、つまりはいわゆる「中部地方」だが、本籍地は岩手県で大学は秋田で過ごし、その後首都圏での在住期間を経て本籍地の岩手県で訳あって15年あまり過ごしてしまった。(大切なこともたくさん見つけたが、残念ながら15年もいたのは本意ではなかった、かといって都会暮らしはもっと性に合わないという現実があるが) けど、私よそ者だからこそ、岩手県の良いところも、すこし封建的だな・・残念だ(多分岩手の人もこの記事読むと思い
日本初の女優は、明治時代の「川上貞奴」(かわかみさだやっこ)さんだと言われている。 日本に、歌舞伎や能など、伝統芸能ではない「演劇」の文化が海外から入ってきて、浸透したのは明治以降。庶民も観劇を楽しむようになったのは、明治中期以降であろう。 川上貞奴さんも川上音二郎さんというパートナーがいながら、「女性は良妻賢母として家庭を守るべきだ」という当時の風潮の中、苦労されたようだが、大正時代に活躍し、「日本初の一般に知られた大人気女優」(異論はあるかもしれません)であった松井須
皆さんは、「大学野球」というものに興味があるだろうか? たぶん、多くの人が「無い」というだろう。 コアなファンでも、興味を向けることがあるのは東京六大学野球(特に早慶戦)くらい・・実質、レベルは全国一と言われる東都大学リーグ(最も近年は地方の大学が強化を進め、異論を挟む余地が出てきているが)でも「よく知らない」人が多いと思う。 ところが、この大学野球、試合を観に行くと結構面白いのである。 各リーグをリードするような強豪大学には、高校時代からマニアやプロ野球のスカウトた