鈴木篠千

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派遣録 90 “壊れていく”人々

2012年の後半まで話は進んだ。 ここで、かつて所属(アシスタント職員)していた日◯年金機構の事務所で見た、心身に“変調”を来した人々の話を書いておきたい。 少し時間が戻る(2009~2012年)が、それほど俺の怨みは深い。 …というか、ストレスは人を壊す、という事を俺が身を持って知っているから(脳腫瘍)だ。 怒鳴り声の“応酬”年金事務所にいた頃、一番キツい部署は“お客様係(給付課)”である。 当時、年金問題が世間を騒がせ、クレームの嵐だった。 1つの電話に出ると一時間

    • 派遣録89 2012年~の日雇い現場【後】

      【臨時職員時代の“合間”に働いた日雇い現場の続き】 DVD工場この系統の工場は2ヶ所ある。 一つは浜松市(旧)北区にある工場。 内容はアダルトDVDの仕分け。 30人くらいの大人数で働いた。 年配の女性の日雇い(主婦?)が「…若い子は、こんな事するのー(笑)」と、DVDのパッケージ裏を見て、俺に尋ねてきたりした。 もう一つは、掛川にある工場。 仕事内容は同じ。アダルトDVDの仕分け。 ここでは何故か偉そうなバイトの若者がいて、口論になった。 今でも頭に来ている。また顔

      • 派遣録 88 2012年~の日雇い現場【前】

        この市役所臨時職員(市内各地)は、1ヶ月ごとだったので、その合間の1ヶ月に働ける仕事を探すしかなった。 この頃によく働いたのは、 チラシ配布(ポスティング) 倉庫でのピッキング 大型食品工場の地下 農作物収穫手伝い DVD工場 荷物(部品)運び クリスマスイベント …などをしていた。皆、1ヶ月通してではなく、1日~一週間の短期間並びに日雇いだった。これを臨時職員の“合間”にしていた。 それぞれの思い出を語って行こうか? チラシ配布(ポスティング)俺は浜松市内で数件のポ

        • 派遣録 87 臨時職員続き

          浜松青果市場臨時職員として派遣された場所に、南区鶴見町にある青果市場がある。 そこは市の外部団体が運営されていたようで、市の関係者が働いていた。 市場に隣接した建物かあり、その二階に事務所があり、そこが市場事務所だった。 ここの仕事は俺の経験した中で“最も苦痛”な現場だった。 …というのは、ここ、物凄く暇だったからだ。 とにかく仕事がない。(おそらく臨時職員の俺だけは…) 朝、出勤すると駐車場の車(違反車輌)のチェック。 それが終わると何もすることがなくなる。 職員さんに

        派遣録 90 “壊れていく”人々

          派遣録 86 臨時職員

          浜北区役所臨時職員の話を続ける。 市役所(当時の中区)の他に派遣された場所が数ヶ所ある。 その一つが浜北区役所だ。 仕事の内容は市役所の時と大しては変わらない。 違うのは、ちょうど国勢調査の頃でその調査表のチェックをしたことぐらいか? 大変な仕事ではなかった。 ここの職員は市役所とは違って、優しく、差別的な人間がいなかった。 俺の隣の席の職員さんなどは、非常に明るく、俺などにいつも冗談ばかり話していた。 ミスしたら怒られたりもしたが、それでも見下すような雰囲気は少なかっ

          派遣録 86 臨時職員

          派遣録 85 再び派遣へ。

          日雇い派遣君“第4期”へ。ようやく話が日雇い派遣の事に戻ってきた。 2012年の春(4月)、2回目の脳腫瘍手術を終え、退院した俺は年金機構(アシスタント職員)を辞め、再就職先を探していた。 そして見つからなかった💧 当たり前だ。 30過ぎの脳腫瘍を患ったおっさんを喜んで雇う会社はそうそう無い。 (まだ30代半ば。…俺を雇いたがる会社はきっとある…) そんな事を思っていた俺は甘かった。 全く見つからなかった💧 俺の愚かな自尊心と期待は急速に減退し、そこに『年金事務所から

          派遣録 85 再び派遣へ。

          派遣録 84 日本年金機構への今も許さない怒り💢💢

           最後の挨拶2012年の春(3月末)、俺は年金事務所を辞めた。 契約期間(三年)が来ての契約解除だった。 また無職に戻った。 “アホ”な俺はそれを気にせずに、安易に受け入れていた。 そらは、すぐに“他の現場”で働ける気でいた、からだ。 (年金事務所だけが、仕事ではない) ここまで販売業(ブラック)、求人広告(解雇)、さらには日雇い派遣といろんや仕事現場を働いていた経験のある俺は、自分が他でもバリバリ働けると思い込んでいた。(本当にアホだ💦) 年金事務所との契約が切れ

          派遣録 84 日本年金機構への今も許さない怒り💢💢

          派遣録 83 2度目の手術へ

          手術の後は…2012年の手術が近付いて来た。 頭部に残った腫瘍を除去するためだ。俺はその事で頭が一杯だった。 事務所では白眼視されてはいたが、そんな俺と気軽に話してくれた職員もいた。 戸田くん(仮名)や白間さん(仮名)などだ。 “俺がなれなかった”準職員の方々だった。 だが、俺にはわだかまりはなかった。 二人とも、民間出身で、アシスタント職員の俺とも話してくれた。接しやすい人間だった。戸田くんは福原とソリが合わないらしく、時々もめていたなあ。 また福原の変わりに適用調

          派遣録 83 2度目の手術へ

          派遣録 82 職場復帰(一時)

           髪、復活放射線治療のせいで髪の毛が抜け、落武者状態だった俺は、2011年の秋になっても“そのまま”だった。 当初は生きていただけで良かった、などと思っていたが、さすがに恥ずかしい。まだ30代半ばだ。 近所のドラッグストアーでいろんな発毛剤や養毛剤を試したが、効果なかった。 それで思い切って、店員さんに相談した。 すると、「これ、新商品なんですが…」と新しい発毛剤を勧められた。漢方を使った4000円程の赤い缶だった。 「高いから、効くわけでも…」と思ったが、購入して使

          派遣録 82 職場復帰(一時)

          派遣録81 “その”夏

          地獄横浜のクリニックで5日間の放射線治療が始まった。 これ放射線治療)に比べたら、脳腫瘍除去手術など屁みたいなものだった。 放射線治療自体は別に痛くと痒くもない。 事前に頭のデータを取り、クリニックの地下にある治療室で目隠しされるだけである。 後は、機械が勝手に放射線を俺の頭に打ち込み、腫瘍を攻撃する。 これは問題がない。 問題は治療後だ。 それは1日目からだった。 とにかく気持ち悪い🤢 放射線を打たれた腫瘍が頭の中で微動するらしく、それが嘔吐中枢(?)を刺激し、俺はとに

          派遣録81 “その”夏

          派遣録80 闘病記 一時帰宅と夏。“横浜”への道

          一時帰宅の涙💧2011年夏、俺は一時退院した。 数ヶ月ぶりに、浜松医大の外に出た。 身体は立てて、動けるようになったが、以前とは違い、不自由。視界の欠損は減ったが、半側視肥大(視界の右側が大きく映る)や幻覚は続いていた。 さらに、手術の影響で左足と左腕が少し不自由になった。言葉は相変わらず不明瞭なまま。 身体は不調…。 それでも俺は自宅に戻れたのが嬉しかった💧 (一時退院が)無理だ、とかダメだ、などとは思ってなかったが、あの手術直後の酷さから、一時的たが退院など考えら

          派遣録80 闘病記 一時帰宅と夏。“横浜”への道

          派遣録79 闘病期⑧ 入院中の思い出

          少し話が戻り、術後に個室(ICU的なところ)にいた時の話。 思い出したので、書いておく。 ローラの“元値”この頃、テレビにローラが出ていた。 あのため口キャラの女性タレント。最近見ないけど、どうしたのだろう? 頭から管が伸びていて(脳髄液流し)、動けない俺は、テレビは付けていたが、画面が観れなかった。 なので、音声だけを聴いていた。 その中で、おかしな女の子がいた。 バラエティー番組で何かため口で話し、何故かその後に爆笑が聴こえた。 (…何故、この子が話した後、こんな

          派遣録79 闘病期⑧ 入院中の思い出

          派遣録78 闘病記⑦

           “汚い”話 若林(仮名、介護士)らとリハビリを続ける内に、俺の身体は次第に日常生活を取り戻せるようになってきた。  歩けるようになり、食事量も増えた。不明瞭だった言葉は多少会話が可能になった。  そして、一番嬉しかったのは、“排泄”である。  “汚い”話で恥ずかしいので書きたくないのだが、ここまで来たら、書いてしまおう。  個室にいる間(手術直後から2ヶ月弱)、俺は点滴で栄養を賄っていたのと、頭から管を出していた(脳髄液)ので、トイレにいかなかった。  なので、排泄が

          派遣録78 闘病記⑦

          派遣録77 闘病記⑥ リハビリ

          一般病棟へ  手術後、両親は毎日来た。  有り難かったか、情けなくもあった。何故なら俺の様態はあまり回復しなかったからだ。    弟が来た。  両親は弟には俺の病気(脳腫瘍)を教えていなかったので非常に驚いていた。(弟は独り立ちしていた)  天井しか“見られない”俺は、人生に絶望しかけ、両親の事を弟に任そうとしだが、それでも“ここから”回復したくて、その事は言わなかった。  そして、年金事務所から所長と適用調査課の課長が来た…らしい。  俺は脳髄に炎症を起こして意識が朦朧と

          派遣録77 闘病記⑥ リハビリ

          派遣録76 闘病記⑤ 幻覚と白い天井

           “変わった”世界  「すずきさーん…」  どこかで俺を呼ぶ声がした。  「すずきさーん」  …誰だ? まだ眠いなあ…。  「すずきさーん、手術、終わりましたよー」  …ん、手術?  「起きて下さいねー」    手術が終わり、俺は麻酔から目が覚めた。  (…生きていた…)  松山医師(仮名)から命の保証(“危なくなったら”手術は止めるよ…)と聞かされていたが、開頭手術なので、さすがに怖かった。  だが、俺は生きていた。良かった。  俺は目を開けて、起こしてくれた太った看護婦に

          派遣録76 闘病記⑤ 幻覚と白い天井

          派遣録75 闘病記④ 手術

          マイペース♪(サンセットスウィッシュ) 年金機構からの不合格通知に絶望した俺の心を癒されなかった。  当たり前だ。数日後に脳腫瘍の手術を受けるのだ。俺は未来に何を期待したら良いのか?  そんな時に、スマホのYouTubeで“マイペース”という歌を聴いた。  そびえ立った大きな壁に恐れることはない♪  答えのない人生に、迷うことなく、キープ マイ ペース♪  松山医師(仮名)は相変わらず明るく気さくで手術への怖さはなかった。  だが、嫌な考えは浮かんでしまう。  手術が成功

          派遣録75 闘病記④ 手術