[疲労社会]を京都にいる間に読んだので⑤~強いられるアイデンティティを超えた多様性を求めて~
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さて。まぁ、やるか。という感じで、1か月前に京都に行ってきたわけですが、その時に読んだ[疲労社会]の話をひとつ少し長めに1本の記事に拡張してお届け。この話を読んで、自分の人生が改善されるかどうかはわからないけども、それ以上に世界を見るときのひとつの視点を手に入れることはとても大事だし、そういうことをしっかりまとめ上げることは頭の体操にもなるからね。
さて、4本に分けて書いてきている[疲労社会]についてだけども、頭を整理する或いは、ぐでぇと埃を被っていた頭の中の知識層に、少し新鮮な風を送り込むようなそういう感じの読書となった。ある意味でいい本だと思うけど、なんかちゃんと最先端の知識を追っかけている人たちにとっては、そんなことわかってんだよーってなりそうな本でもあったかなぁ。まぁでも、現代社会というか、現在の科学って基本的に、あまりにも変化が激しくまた議論している部分が先鋭化している部分があるから、ほんの少し先に行くだけでも大変な労力と、そこに至るまでの膨大な先人たちの議論があったりするので、そんなことわかってんだよーが9.5ぐらいで、残りの0.5に最先端のエッセンスがほんの少しだけ薫っているみたいな話になりがちなのである程度は仕方ないのかなって思うんだよね。
1.改めて[疲労社会]を端的にまとめますと
まぁ、本来はこういう要約ってあんまり好きじゃないんだけど。要約って本旨をおさらいするみたいな感じで使われるけど、さっきも言ったけど、膨大な「そんなことわかってんだよー」が本旨に見えがちで、本当の意味での最先端って枝葉・末端に見えてカットされちゃったりするので、本当にちゃんと買って読んでほしいんだよなーって思いながらキーを叩いています。
とりあえず、結局[疲労社会]の最大のポイントは、「忙しい人間」とか「仕事が出来る人間」とかの評価があまりにも高くなってしまい、誰もがそれを目指し、またそういう人間のために社会システムの構築されてしまった。そのため、その評価を得やすいアイデンティティを構築することを強いられる環境となってしまい、多くの人間がこの強いられるアイデンティティ獲得に忙殺されている。一方で、そこにアイデンティティを見いだせない人間を無能と評し、社会から排除するほどにまでなってきてしまったのではないか。この排除を、「発達障害」とか「鬱」とか「精神病」と呼んでいるのではないか。しかし、私たちのアイデンティティは自由というものが組み込まれているので、そうした「社会から強いられるアイデンティティ」に対して、大いに疑問がある。強いられるアイデンティティの先に幸せは本当にあるのだろうか。
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