見よ、世の罪を取り除く神の小羊(第一説教集2章2部試訳) #11
原題:A Sermon of the Misery of all Mankind, and of his Condemnation to Death everlasting, by his own Sin. (罪ゆえに永遠の死に定められている人類の悲惨についての説教)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
第1部の振り返り
深く自分を知ることは神を正しく知るためにとても大切なことです。みなさんにはこの説教の前半で、信仰を持った人はすべてどれほど慎ましく自身について考えるものであるのかをお話しました。創り主である神はわたしたちが慎ましく自身について考えるべきであると、御言葉をもって示されています。わたしたちは甘美な実を結ぶことのできない木です。わたしたちはイラクサや茨や藪や、ムギセンソウや毒麦しか生やすことのできない土です。わたしたちが結ぶべき実については『ガラテヤの信徒への手紙』の第五章にあります。わたしたちにはそもそも愛も慈悲も平和も自制も柔和もなく、神によらなければ何も善いものはありません。こういった美徳は「霊の結ぶ実(ガラ5・22)」とされており、けっして人間が実らせることのできるものではありません。
人は慎ましく罪を告白すべきである
神の御前で、実際にわたしたちがそうであるままに、自分が悲惨で救いようのない罪人であるということを告白しようではありませんか。心から悔い改めて慎ましくし、神に御慈悲を乞おうではありませんか。自分たちには何もかもが欠けているということを、口と心で告白しようではありませんか。わたしたちの行いそれ自体が欠けているものであることを認めましょう。自分たちの思い込みによって愚かで尊大になってはいけませんし、義が自分の功徳や行いによって得られると思ってもいけません。わたしたちがどんな行いをしたところで、何かが足りないものになります。自分たちの心と思慮と力のすべてもってしても、わたしたちは自分たちが愛したいと思うほどには神を愛せません。わたしたちは自分たちが畏れるべきであるほどには神を畏れることもできませんし、神に祈ることもできません。あまりに欠けているものが多く大きいからです。わたしたちは与えることも赦すことも、信じることも生きることも望むこともしっかりとはできません。わたしたちは話すことも考えることも行うこともしっかりとはできません。わたしたちは悪魔やこの世界や肉的なものと戦うこともしっかりとはできません。わたしたちはこういう者なのですから、足りなさを正直に告白することを恥じてはいけません。そうです、どんなに力を尽くしても何かが欠けているのだと告白することを恥じてはいけません。
新約と旧約にみる罪の告白
聖ペトロと同じく、「わたしは罪深い人間です(ルカ5・8)」と言うことを恥じないでいましょう。かの預言者ダビデと同じく「私たちは先祖と共に罪を犯し、過ちを犯し、悪を行った(詩106・6)」と言いましょう。かの放蕩息子と同じく、父に向かってはっきりと告白し、「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません(ルカ15・18~19)」と言いましょう。預言者バルクのように「私たちの神なる主は正しい方です。しかし、私たちとわたしたちの父祖の顔は、今日も恥にまみれています(バル2・6)。」「私たちの神なる主よ、私たちはあなたのあらゆる掟に背いて罪を犯し、不敬虔に振る舞い、不義を行いました(同2・12)」と言いましょう。預言者ダニエルと同じく「主よ、あなたは正しい方です(ダニ9・7)。」「私たちは罪を犯し、過ちを犯し、悪を行い、逆らって、あなたの戒めと法から離れ去りました(同9・5)」と言いましょう。わたしたちは聖書に書かれているあらゆる善き人々について知ることで、神を誉め讃えて栄えとすることができます。
人は邪悪で不完全で弱い者である
みなさんはここまでで、人間がどれほど邪悪であるのか、言いかえれば自分自身によっては善も救いも持てず(二コリ3・5)、それどころか罪や破滅や永遠の死に至るということを知りました。よく考えれば、わたしたちは神の大いなる御慈悲もさることながら、救いがなぜキリストのみによってもたらされるのかをよく理解することができるはずです。ところがわたしたちは何もわかっていません。始祖であるアダムが悪魔の妬みによって神の戒めを破ったことによるこの悲惨な囚われの状態から、わたしたちはキリストによって救い出されます。わたしたちはみな「神に身代金を払うことができない(詩49・8)」のです。わたしたちは自らを贖うことも誰かを贖うこともできません。生まれながらにして「神の怒りを受けるべき子(エフェ2・3)」であり、そもそも神の栄光の子や天の国の相続者になることはできません。わたしたちは「羊のようにさ迷って(一ペト2・25)」いて、自分の力では羊小屋に帰って来られないほどに不完全であり弱い者です。
人は神によって義とされる
わたしたちに栄えはなく、罪深い者でしかありません。わたしたちはそもそもどのような行いをしても神に喜ばれることはありません。あまりにも不完全で不純であるので、神の正しい王座の御前に立つことはできません。かの偉大なる預言者ダビデは言います。「あなたの僕を裁きにかけないでください。生ける者の中で、あなたの前に正しい者はいないからです(詩143・2)。」わたしたちは神に対して身を委ねるべきであり、さもなければ平安や良心の安息と静けさを見出せません。神は「慈しみ深い父、慰めに満ちた神(二コリ1・3)」であります。神は主であり、「豊かな贖いがある(詩130・7)」方です。神は御慈悲をもってわたしたちを救ってくださり、大きな愛をわたしたちに向けられます。分け隔てのない愛をもって、わたしたちが死に至るときにわたしたちを救い、永遠の御国に導いてくださります。この天の宝がわたしたちに与えられるのは、わたしたち自身の功徳や功績や善行のゆえではなく、ただ神の御慈悲のゆえです。そもそもそういったものはわたしたちの中にはありません。
キリストはどのようなお方か
わたしたちの救いはどなたによるのでしょうか。それは純粋で汚れのない神の小羊イエス・キリストによります。イエスは神に愛される御子であり、その御子が執り成しをなさることで神はいたく御心を穏やかにされ満足されます。イエスは「世の罪を取り除く神の小羊(ヨハ1・29)」であり、「罪を犯さず、その口には偽りがなかった(一ペテ2・22)」方です。イエスのほかには誰も「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである(ヨハ14・30)」とは言いません。イエスだけがこう言われます。「あなたがたのうち、一体誰が私に罪があると責めることができるのか(同8・46)。」イエスはいと高きところにおられる永遠の祭司であり、十字架という祭壇において「ご自身を献げることによって、ただ一度でこれを成し遂げられた(へブル7・27)」のですし、「唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださった(同10・14)」のです。イエスは「神と人との間の仲介者(一テモ2・5)」であり、「血によって(へブ10・19)」わたしたちを神に贖い、「あらゆる不正から清めて(一ヨハ1・9)」くださりました。
救い主キリストをほめたたえるべし
イエスはわたしたちの病を治す医師です。救い主であり、「自分の民を罪から救う(マタ1・21)」方です。いつも水をたたえておられ、尽きることのない泉であり、「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた(ヨハ1・16)」のです。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています(コロ2・3)。」イエスにおいて、またイエスによって、わたしたちは父なる神から肉的にも霊的にもあらゆる善きものを受け取っています。ああ、救い主イエス・キリストによって語られる神の大いなる御慈悲を、わたしたちはどれほど天なる父に対して乞うているのでしょうか。わたしたちは、どれほど感謝を神に向けているのでしょうか。わたしたちの主である御子イエス・キリストを通して神が示される憐れみ深い御心に対し、喜びの声をもって歌い、この慈愛にあふれた主を誉め讃えようではありませんか。
この説教のまとめと次の説教の予告
この説教で、みなさんは人間が極めて罪深く哀れで救われない者であることを知りました。わたしたちは自身の力では善きことを考えられず善き行いをすることもできません。そもそもわたしたちに救いの望みはなく、むしろ破滅に向かうのみです。父なる神の憐れみ深い御心と大いなる御慈悲がわたしたちに向けられていますが、その御心や御慈悲はわたしたちの功徳や功績のゆえにではなく、キリストのゆえに示されています。しかしイエス・キリストを通して示される神の御慈悲はどのようにして得られるものであるのでしょうか。また、どのようにしてわたしたちは罪や死や地獄の囚われの身を脱することができるのでしょうか。神の御恵みにより、このことについては次回の説教で詳しくお話します。
結びの祈り
いついかなるときも、自身の行いや功徳について高慢になるという過ちを犯すことなく、むしろ自身の脆さや弱さに思いを致しましょう。神がわたしたちに大いなる御慈悲を向けられていることをよく覚え、「自分たちはそもそもあらゆる悪や破滅に定められている者であるが、神にあるならば、あらゆる善や救いに至ることができる」と告白しましょう。それは、神が預言者ホセアに「イスラエルよ、あなたに破滅が来る。あなたを助けるのは私なのだ(ホセ13・9)」と語らしめられているとおりです。わたしたちが慎ましく自身を神の御前に献げれば、神は来臨なされたとき、必ずやわたしたちを愛すべき御子である主イエス・キリストの御国に導いていってくださります。父と子と聖霊なる神に、とこしえに誉れと栄えがありますように。アーメン。
第一説教集第2章「罪ゆえに永遠の死に定められている人類の悲惨について」の第2部「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」の試訳を投稿しました。次回は第3章第1部「救いについて」の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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