信じる者に義(第一説教集3章1部試訳) #13
原題:A Sermon of the Salvation of Mankind, by only Christ our Saviour, from Sin and Death everlasting. (救い主キリストによる罪と永遠の死からの救いについて)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です):
神は罪深い世にキリストを遣わされた
人間はすべて神に対する罪人で反逆者であり、なおかつ神の律法の破壊者です。人間はそもそもけっして善なる者ではなく、誰も自身の行いや振舞いによって義とされ神の御前で正しいとはされようがありません。神の御手に受け取られるためには、すべての人間は自身の行いによってではなく、必然的に別のものによって義とされ正しいとされなければなりません。求めるべきは人間が神の御心に反逆したという罪や過ちについての赦しです。わたしたちは神の御慈悲とキリストの功績によって義とされ正しいとされます。信仰によってわたしたちは義認され、神に受け入れられます。このことをより堅く心に持つためにわたしたちがすべきことは、神の大いなる御慈悲を思い起こすことです。この世は律法の破壊によってすべて罪に覆われているというのに、神はそのひとり子である救い主キリストをこの世にお遣わしになりました。キリストはわたしたちのために律法を全うされ、その極めて貴い血を流されることにより、わたしたちの罪について、犠牲と贖罪と悔悛を父なる神に献げ、神がわたしたちに対して抱いておられた怒りと憤りを和らげられました。
人が義とされるのはキリストによる
洗礼を受けながら幼くして亡くなった子どもでさえ、このキリストの犠牲によって罪を洗い流され、神の愛へといざなわれて神の子となり、その天なる王国の相続者となります。洗礼を受けたのちに行いや振る舞いにおいて罪を犯す人々も再び心から神に向かえば、幼子たちと同じようにキリストの犠牲によってその罪を洗い流されます。それによって、自身の破滅に至る罪が一点も残らないことになります。これは聖パウロが「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく(ガラ2・16)」と語っているあの義認や正しさです。聖パウロは続けてこう言っています。「ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです(同)。」
義認についての問い
しかしそもそも義認がわたしたちに無償で与えられるといっても、さすがに身代金をまったく支払うことなしに、わたしたちに簡単にもたらされるものではないはずです。ここで次のように問をたてて考えてみると、驚くほど合点がいきます。「わたしたちの贖いのために身代金が支払われるとして、それは無償で与えられるものなのでしょうか。身代金を払った囚人は牢の外に出ても全く自由であるというわけではありません。返済すべき身代金があったのでは全く自由であるとは言えないからです。牢の外に出ても全く自由であるためには、つまり身代金を返済する心配なしに自由の身であるには、どのような方法があるというのでしょうか。」
神の義と御慈悲が合わさっての贖い
この疑問はわたしたちの贖いという奇跡には神の御恵みがあるということを踏まえれば解消されます。神は義と御慈悲を持ち合わせておられます。神は義によって、悪魔による永遠に救いのない囚われの身に、つまり慈悲もなく救いもない地獄の監獄のなかにわたしたちを追い込まないようになされます。また神はその御慈悲のゆえに、身代金を支払うという義を果たすことなしにわたしたちを救い出すということもなさりません。神は極めて高潔で正当な義をご自身の限りない御慈悲に結び付けられました。神はわたしたちを悪魔による囚われの状態から救い出すにあたり、わたしたちに身代金の一部を負担することも求められませんでした。わたしたちにはできるべくもない改心を求められもせず、御慈悲を示されました。改心はわたしたちの為せるものではないので、神はわたしたちに身代金を用意してくださりました。その身代金こそが神がいたく大切にされている愛すべき御子イエス・キリストの極めて貴い血と肉体でした。キリストは身代金となられることに加え、われわれのために律法を完全に満たしてくださりました。こうして神の義と御慈悲が合わさり、わたしたちの贖いという神秘がもたらされました。
贖いはキリストによって価なく
この神の義と御慈悲が合わさったことについて、聖パウロは『ローマの信徒への手紙』の第三章で次のように述べています。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした(ロマ3・23~25)。」また第十章では「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです(同10・4)」と語っていて、第八章では「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださりました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求を満たされるためです(同8・3~4)」と語っています。
人間の義認に必要な三つのこと
これらの箇所で聖パウロは特にわたしたちの義認に必要な三つの事柄に触れています。一つ目として神についてはその大いなる御慈悲と御恵みであり、二つ目としてキリストについては神の義の成就、つまりその身体を差し出しその血を流されることによってわたしたちの贖いの対価となり、律法を完全にかつ徹底的に全うされたということです。三つ目としてわたしたち人間についてはイエス・キリストの功績によって得られる真にして生ける信仰です。これはそもそもわたしたちには持つことのできないものですが、神の御業によって持てるようになります。わたしたちの義認のためには神の御慈悲と御恵みだけでなく、聖パウロが言う神の義が必要ですが、キリストがわたしたちの身代金を支払って律法を全うされたということがそれです。わたしたちの義認において神の御慈悲は神の義とともにあります。しかし人間の義は、つまりわたしたちが自身の功績によって義認を得ようとすることは否定されます。聖パウロはわたしたちの義認が神の賜物であるということと、真にして生ける信仰が神によらず人間の力によって得られるものではないと述べています(エフェ2・8)。
義認のために善き行いをするなかれ
真にして生ける信仰は悔い改めや希望や愛や、神への畏敬や恐れとともにあります。ただこれらは義とされるすべての人間の信仰と結びつけられはするものの、これらによって人間が義認されるわけではありません。たとえ義とされる人間がそれらをすべて持っているとしても、そうだからといって義とされるということではありません。確かに信仰と善き行いの正しさはともにありものです。善き行いは神への義務ののちに求められるものであるからです。わたしたちは来る日も来る日も聖書にある神に命じられた善き行いをして神に仕えるべく繫がれています。信仰と善き行いが別のものであるというのは、義とされようとする意図をもって善き行いをすることがあってはならないという意味で言っていることです。わたしたちが為しうる善き行いはすべて不完全なものであり、したがってわたしたちはそれをもって義とはされえません。わたしたちの義認はただ神の御慈悲により、そのとても大きく無辺の御慈悲により価なしにもたらされるものです。
キリストはすべての人の義である
この世の人間はすべて自身の身代金をいくばくたりとも支払うことができません。しかしありがたいことに無辺の御慈悲を持たれるわたしたちの天なる父が、わたしたちの功績や行いによらず、キリストの身体と血という極めて貴い宝石をわたしたちに準備なされ、これによってわたしたちの身代金がすべて支払われることになり、律法が全うされてわたしたちの義が成就することになります。キリストはキリストを心から信じるすべての人間の義です。キリストは死によって人間のための身代金を支払われました。人間のためにその命によって神の律法を全うされました。弱さゆえに人間が持てないものをキリストの義が補っています。キリストによってすべての真のキリスト教徒が神の律法を全うする者と呼ばれるのです。
今回は第一説教集第3章「救い主キリストによる罪と永遠の死からの救いについて」の第1部「信じる者に義」の試訳でした。次回は第2部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。
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