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袴田事件 再審判決無罪

【上記より抜粋】

無罪の場合、戦後の4大冤罪死刑事件と数えられる、免田事件(昭和23年、熊本県、同58年無罪)、財田川事件(昭和25年、香川県、同59年無罪)、島田事件(昭和29年、静岡県、平成元年無罪)、松山事件(昭和30年、宮城県、同59年無罪)に、この袴田事件が加わり、5大冤罪死刑判決となる。
そうなると、冤罪大国・日本の「司法のいい加減さ」がさらけ出され、国民から警察、検察、裁判所は信頼を一層なくすことだろう。
この袴田事件は突如として起きた冤罪と思う人もいるかも知れないが、そうではない。日本の司法には昔から冤罪体質があり、それが起こしたといってもよい。
中でも袴田事件が起きた静岡県内では戦後に次のような冤罪事件が起きていた。
・幸浦事件(昭和23年、袋井市、死刑、ほか求刑、同38年無罪)
・二俣事件(昭和25年、浜松市、死刑求刑、同32年無罪)
・小島事件(昭和25年、静岡市、無期懲役求刑、同34年無罪)
・島田事件(昭和29年、島田市、死刑求刑、平成元年無罪)

紅林麻雄という「負の遺産」

これらの事件の背後には後に「冤罪王」「昭和の拷問王」と呼ばれた紅林麻雄(1908~1963)という静岡県警の刑事がいた。
例えば二俣事件。静岡の片田舎で一家4人が何者かに惨殺された事件だが、地元の二俣署では犯人が中々捕まえられなかった。
そこへ名刑事と呼び声高い紅林が派遣され捜査をした。紅林は証拠もないのに地元の少年を犯人だと決め付け逮捕し、部下に少年がボロ雑巾のようになるまで拷問させ、嘘の自白をさせた。
それを知った二俣署の山崎巡査が少年にはアリバイがあり犯人ではないと批判する。すると、紅林は「少年がアリバイのために時計の針をずらして工作した」と言いがかりをつけて、少年を犯人に仕立て上げた。そればかりか批判した山崎巡査を捜査から除外し、精神異常者であると医師に診断させ、警察も辞めさせた。
紅林は他の島田事件でも知的障害のある青年を証拠もなく捕まえ拷問し、自白させ、証拠を捏造するなど狡猾なことを繰り返し、無実の人を死刑囚にした。そんなことばかりして「手柄」を上げていったのである。
そんな紅林の姦計を知ってか知らでか警察上層部や検察が紅林は優秀な刑事だとし表彰した。それが在職中に351回もあったというから常軌を逸している。

是正されなかった冤罪体質

その後、二俣事件など一連の裁判が行われ、次々と死刑判決が無罪判決に転じると、さすがの警察上層部も不信を抱かざるをえなくなり、紅林を訊問した。それに対し、紅林は「私は間違っていない。国の治安のために家族の幸せも顧みずに働いたこの私のどこが悪いのか」と自己弁護をしたという。
しかし、結局紅林は警察を退職した。その後、家で酒浸りになると体を壊し、昭和38年に55歳の若さで脳出血により死去した。
これを機に静岡県警での冤罪体質は是正されると誰しもが思ったのではないか。
しかし、紅林が死去した3年後の昭和41年に問題の袴田事件が起きた。味噌会社専務の家族4人が殺害された上、放火されるという傷ましい事件である。

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これで検察側が控訴するようなことがあれば、もう完全なお仕舞いである。
そのような展開にならないことを祈りたい。



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