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イエナプランと出会う前

私は東京都町田市で小さなイエナスクールゆに~くというスクールのグループリーダー(公立学校でいう担任)をしています。
スクールについている「イエナ」というのは「イエナプラン」のことです。
ここ数年でオルタナティブ教育の認知が広がり、イエナプランを知っている人も増えてきました。

今は「イエナ」と名の付くスクールをやっていますが、私は最初からイエナプランを勉強していたわけではありません。
でもこの土台があったからこそイエナプランにたどり着いたのだと思います。

ということで、今回は私がイエナプランと出会うまでについてお話します。

1 オルタナティブ教育との出会い

私のオルタナティブ教育との出会いは大学入学前まで遡ります。

高校3年生の夏、教員養成課程のある大学のオープンキャンパスに行きました。
その時に教育学専攻というものを見つけ、
「教育学とはどういうことをするんですか?」
と、教育学のブースにいた教授に聞いたのです。
(今思えば何も知らずに行って質問して失礼ですね)
その時、その教授(以後A教授)から
「どうしてあなたは今日制服で来たの?」
と聞かれました。
制服で行くことが当たり前だと思っていた私はそう答えると、またもA教授から
「どうして?」
と聞き返され・・・その後も私が当たり前だと思ってきた学校の常識について「どうして?」の質問の繰り返し
それまで当たり前だと思って考えもしなかったことの理由を問われ、高校生の私の頭は真っ白になりました。

オープンキャンパス後、A教授とのやり取りが忘れられず、教育学について色々調べ、そこで「比較教育学」というものを知りました。
日本と海外の教育を比較して学ぶというもので、すごく面白そう!
と、大学でそれを学びたい、と強く思ったのです。
そして、高校を卒業し、大学の学校教育学部教育学専攻に進んだのです。
今思えば、それがオルタナティブ教育との出会いでした。

2 大学で何がやりたいか分からなくなる

しかし、前回の自己紹介に書いたように、大学入学後、周りの昔から先生に憧れている同級生たちとの温度差で私は落ちこぼれ、学ぶ意欲を無くしてしまいました。
ある教授の授業はエミールが教科書だったし、被爆県だからこその平和教育だったし、今の私にとっては面白い授業だらけだったと思います。
残念ながらその当時の私には響かなかったんですよね・・・
唯一覚えている授業は生活科の実践授業です。
20年後に私は生活科を研究することになるんですが、このころから興味があったのかもしれません。

教育学専攻には色々なゼミがありました。
シュタイナー・モンテッソーリ・ペスタロッチー・平和教育・社会教育学・・・(他もあったけど忘れてしまいました)
オープンキャンパスでお話したA教授がシュタイナー教育の専門だったのでシュタイナー教育に興味は持っていましたが、そこに進むかどうか決定できず迷ったまま過ごしました。

3 社会教育学のゼミに入る

そして、3年生になり専門のゼミを決める日、なんと寝坊!
1コマ目が始まるときに志望するゼミの教室にいなければいけませんでしたが、私が起きた時間はもう1コマ目が始まっていました・・・
起きたのは目覚ましではなく、友達からの電話。
「ゼミ、来てないけどどうする?
 B先生のゼミ受けたいって言ってたよね?」
と、そのゼミに行った友達が電話をしてくれ、B教授に頼んでくれたのです。
初日寝坊で遅刻するという失態からのスタートを受け入れてくださったB先生の元で私は2年間勉強することになりました。
そこはシュタイナーも比較教育学でもなく「社会教育学」のゼミでした。

シュタイナーがやりたかった私は最初落ち込んでいました。
社会教育学をよく知らず入ってしまったし、しかもB教授とA教授は犬猿の仲。
シュタイナーという言葉を出すと研究室の空気がピリピリしました。
当初私のオルタナティブ教育への道は閉ざされてしまったと落ち込みましたが、社会教育学のゼミは楽しかったし、教授の人柄も好きだったし、先輩もいい人ばかり、そしてたくさんの学びがありました。

そのB教授がその年始めた地域教育に、私たちゼミ生はボランティアで参加しました。
それは、地元の小学生を募って地域で1年間の体験活動をするというものでした。
顔合わせを皮切りに田植えや海での活動など、地元の小学生たちと一緒に活動して語らったことは本当に楽しかったです。
まだ先生でもない、小学生でもない、ちょうど間の学生という立場だったからこそやれたことでした。

B教授の紹介で体験学習の自主学習合宿にも参加しました。
自然の家で子どもたちがやるようなことを教職関係の大人たちが集まってワイワイやっていました。
ちょっとすると異様な光景でしたが、大人があそこまで楽しめるってすごいなあ、と今でも思います。

4 卒論テーマは「教師宮沢賢治」

そして卒論の時期・・・
私が選んだのは教師を目指す原点となった「教師宮沢賢治」でした。

B教授のゼミでそんなテーマを選ぶ人はいなかったようで、教授を困らせ、自分でなんとかしなきゃと隣の教育学部の漫画などの文化を研究している教授に話を聴きに行ったり、インターネットで宮沢賢治に詳しい人を探して繋がって情報をもらったりと一人で格闘する日々が続きました。
B教授には国語専攻ではなく教育学専攻でやる意味を問われ続け、賢治の作品の内容にはほとんど触れない教育に特化した内容にしました。
賢治がやっていたことが地域の生活に根差していたので社会教育学とも繋がり、ほっとしたのを覚えています。

そして出来上がったのは、賢治が4年間の農学校教師生活でしてきたことと、退職後に「羅須地人協会」という地域コミュニティを作ってそこで学び合っていたことについての論文です。

賢治の教育社会活動は、何かの教育理論ではなく賢治自身のちゃんとした理念をもって、高校生や大人でも体験重視、生活の中に学問を落とし込む、音楽など芸術のある生活を営む、ほんとうの自分を大事にするという特色がありました。
今思えばある意味先進的なオルタナティブ教育です。

5 シュタイナー教育もやっぱり気になる

私が大学時代、話題になった本が「賢治の学校
私と同じように教師賢治に魅力を感じその教育をやろうとしていた鳥山敏子さんがその想いと記録を書いた本です。

これは!と思い、一気に読みました。
書いてある内容はとても興味深いものでした。
鳥山さんが作った学校は「東京賢治の学校」。
賢治の学校はシュタイナー教育で、またここでシュタイナーにつながりました。

これはシュタイナーをやれ、ということかな、とも思いましたが、大学時代はB教授の手前それはできず、「賢治の学校」を読みこみ卒論に反映させるのみでとどめました。
賢治の学校にメールは送った気もしますが、結局見学に行くことはできませんでした。

その後もやはりシュタイナーが気になり、大学卒業後も東京で立川にある賢治の学校のことを調べ続け、いつか行こう、そこで働きたい、と思っていました。

6 シュタイナーから離れる決意

しかし、そこに突然大学でお世話になったB教授の訃報が入りました。
まだこれから活躍するばずであったB教授の死にみんなが驚き、慌てて私はゼミ仲間と一緒に広島に戻りました。
詳しい内容は伏せますが、そこにまたA教授の存在が出てきたのです。
B教授の家を訪問した時、とてもシュタイナーに進みたいといえる雰囲気ではありませんでした。
私はB教授を恩師とするなら今後「シュタイナー」という言葉はもう出せないなと思いました。
私は何かやりとげたらお世話になったB教授に「やりましたよ!」と伝えたい。
それができないなら、これはもうシュタイナーとは関わるなと言われているように感じ、私はシュタイナーを専門に学ぶ方向とは違う道を行くことに決めました。

そんなこと?と思われるかもしれませんが、私にとっては大事なことです。
今でもシュタイナー学校の本は持っていますし、本も読みます。
その内容も好きです。
たまに学校で手法を取り入れることもありました。
でも、これに関しては参考にする程度にして、それを専門にすることはやめています。

この後、私は小学校教諭になります。
そこでの経験がイエナプランと繋がっていきます。

長くなりましたので、続きは次回にします。
お読みいただき、ありがとうございました。


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