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「言葉のデッサン力」

こんばんは、りおてです。

画像は、レオナルド・ダ・ヴィンチの《花の研究》です。2016年に江戸東京博物館で開催された「特別展 レオナルド・ダ・ヴィンチ ー天才の挑戦」で購入した絵葉書をスキャンしたものです。実物は撮影禁止でした。本記事とは素描繋がりです。

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「現代作家を腐すわけじゃないけれど、やっぱり昔の文豪と呼ばれる人たちは、描写の力が半端じゃないよね。言葉のデッサン力っていうのかな。それがすごくある」

昨日の深夜、友人が言った言葉だ。

彼の使った《言葉のデッサン力》という表現に、私は「なるほど」と思った。

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私は文章を読む時、“好きな表現”を探すタイプだ。勿論物語そのものも大切だけれど、どのような言葉でそれが表現されているか、に、強い拘りがある。

例えば、私の好きな一文に、

わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。

というのがある。

これは『吾輩は猫である』の中で、“吾輩”が出会う、“猫中の大王とも云うべき”黒猫の、午睡の様子を描写した表現だ。枯菊を押し倒して眠る大王の柔毛(にこげ)の美しさと同時に、その堂々たる風格すら一文中に表してしまう描写力の高さに、思わず舌を巻く。何より選ばれた言葉たちの、なんと絶佳たることか。

お気に入りの表現は他にもある。梶井基次郎『檸檬』の一文を抜粋しよう。

店頭に点けられた幾つものいくつもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。

電燈の灯りを、単なる光としてでなく、“絢爛”それ自体と捉え、それをさらに“驟雨”のようだと表現する感性。果たして「文豪」というのはこれほどのものか。ちっぽけな1人の読者である私は、またしても舌を巻く。

私がこれまで読んできた本たちのお気に入りの表現を挙げ始めたら、それこそ上・中・下巻の分厚い本になってしまいそうだからやめておこう。けれどそうして挙げていくとしても、やはり所謂「文豪」たちの書く文章から引用するところの多いものになるだろうことは、凡そ間違いがない。

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冒頭の話に戻ろう。

彼ら「文豪」の書く文章の美しさ、的確さ、精度と解像度の高さを指して、友人は《言葉のデッサン力》と言った。

デッサンとは、言ってみれば習熟のための手続きのようなものだ。形が合っているか、陰影が描けているか、何を見せたいのか、そのための構図はこれでいいのか、どういう風に画面を支配していくのかーー。常に思考しながら描き続ければ、それらは自ずから身についてくる。

同じことが、文章にも言える。

言葉選びは合っているか、何を明文化し何を紙背に含ませるか、何を読ませたいのか、そのための構成はこれでいいのか、どういう風に紙面を支配していくのかーー。そうして思考し続けることで、文章の精度はどんどん上がる。

だから、《言葉のデッサン力》。

友人との会話では、「文豪」たちのこの力の高いのは、ただ文筆活動に勤しめるだけの時間があったからかもしれないねという話で纏まった。あるいは、時代のせいもあっただろうか。

とにかく、私は彼らのような文章に憧れ、そしてその力を《言葉のデッサン力》だと捉えた。ならばやるべきは当然、言葉のデッサンだ。考えて考えて考えて、そして書いて書いて書きまくるしかない。私は、かつての「文豪」たちのような“文筆家向き”の時代には生きていないけれど、“文筆向き”の時代には生きている。嗚呼、SNS時代、万歳!

今日もこうして文字によってひとつの文章を形成できたことに感謝を。

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最後に、川端康成の『文章読本』より引用して、筆を置こうと思う。

小説が言葉と文字による芸術である以上、我々は、表現を常に文章によって行うほかはない。絵画が線や色によって表現し、音楽が音によって表現をするように、小説は文章によって、表現される。
われわれの言おうとする事が、たとえ何であっても、それを表すためには一つの言葉しかない。それを生かすためには一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。(中略)その動詞を、その形容詞を見つけるまで探さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかへたりしてはならない。


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りおて
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