#90 ゆとり世代が思う根性論
僕が高校生の時くらいからだろう。
脱根性論の流れがどんどん出て来た。
・理不尽な根性論によって生徒が自由にのびのびとできない。
・それよりも効率よくできる
・新たな取り組みで結果が出ている
などなど、様々な意見があったのだろう。
僕はこの脱根性論の考え方も嫌いではないし、新しい考え方や取り組みが出てこないと進化していかないからいい流れだなあと思っていた。
でも根性論そのものが悪という意見には反対だ。
根性論を求めていない人へと突きつけるからなんだか感じの悪い古臭いものとなるのではないだろうか。
僕は間違いなく根性論を自分に突きつけることで成長したタイプだ。
自らに常に達成できるかギリギリのミッションを課す。
一番大切な時期にそこから逃げて受験失敗した1,2浪目などもあるが、精神をすり減らす体験をすることで成長したと思っている。
僕がそこに向かえたのは、テニスを指導してくれていた父親の存在があってこそだと思う。
いずれ記事で触れようかと思っているが、贔屓目無しにも一流の指導者だ。
でもそうではない人も多いのは事実だ。
のびのび自分のペースで取り組むことで僕以上の成果を出す人だっている。
僕が今テニスクラブで面倒を見ているジュニアの中にもタイプは様々だ。
そこで「僕はこういうことをして、成長した。だから君らもそうしなさい。」と言うと、ハマる子にはハマるがハマらない子には苦痛でしかない。
そしてハマった子はどんどん意欲的になり、ハマらなかった子はなんだか頑張っていないように映る。
そうコーチに映ると「ちゃんとやれ」と注意される→さらに意欲低下する→テニスが嫌いになる。
最近のジュニアを見ているとこの流れが非常に多い。
そのジュニアを担当していたコーチはこう言うのだ。
「最近のジュニアは根性がない。」
コーチの前で必死な姿を見せて褒められることで伸びる子もいれば、黙々と自分のペースでやり1人の時に死ぬほど追い込む子もいる。
本来一括りにはできないはずなのに、強い選手を一度でも育てたコーチたちはもう一度その選手を作ろうと同じことをしようとする。
これが質の悪い根性論だと僕は思っている。
自分にミッションを課す前にそれ自体を嫌いになってしまうのだ。
自分にミッションを課せるように仕向ける話し方や見せ方
僕のようなタイプは少し煽ってもいいから焚きつけるように話すが、自己表現が苦手な子にはそのような話し方はしない。
自分でできると思っていることを口に出してもらってみたり。
自分にミッションを課せるようになると、結果を求めるのであれば必然的に根性論が発動してくる。
やりたくないタイミングが出て来ても、自分で立てた目標や結果をなんとしても達成したければ、「ここで頑張ったら受かるかも、勝てるかも」とか「この苦しい経験が自分を支えるかも知れない」とか根拠なんかない考え方にすがってもうひと踏ん張りしようとする。
ギリギリで支えてくれるものは自分の気持ちである
ということに自分で気づけるくらい努力することが、今の中学生や高校生にとって如何に尊くて貴重なことなのか。
そこが1番大切だと僕は思っている。
結果を求めるのならば、自分に刃を突きつけるタイミングがある。
それを自分自身でできるようになってほしい。
使い方によっては根性論は自分を支えるものを得るための手段になる。
それは令和だろうが変わらない。