一部のメタ認知能力に乏しい教員の愚痴が家庭や地域や福祉関係者を傷つける
最近よく見かける「✕」(旧Twitter)の投稿で気になるものについて
長期休暇の「短縮」に関して「福祉」の仕事などと無責任に言い放つ
福祉の仕事を少しでも経験すれば、ここのところ話題になっているように「福祉」関係には目指す「福祉」の実現のための課題が山積していることがわかるはずである。
一部の教員は、自らの「超過勤務」逃れや、「働き方改革」と称して何もかも学校教育にとって「雑務」と感じるものを排除しようという思惑から、安易に「それは福祉の仕事でしょ」というような考えを発信している。
福祉の関係者は、介助の必要な高齢者、障がいを持つとされる人、生育環境が極めて不適切な児童生徒など、ただでさえ現在も人手不足の上に極めて低い賃金と身分保障の中で、毎日、心身共にすり減らしながら仕事をしている。
労働環境の不健全さは、学校教育の教員に比べてはるかに劣悪な状況にあり、「人間の尊厳」のためという理念のまっとうとは程遠い「建て前と本音」のなかで、あえぐように仕事をしている「福祉」関係者にである。
それにもかかわらず事あるごとに「それは福祉の仕事でしょ」と言い放つ教員は、現代日本の社会的課題を児童生徒とともに考え将来に解決しようという姿勢にも資質にも欠けていると言わざるをえない。
学校以外のどこに児童生徒の安全で安心できる場があるか
これも「福祉」関係、さらには、管轄が不明で未だ手探り状態が現状である「放課後デイサービス」などで、学校で努力されているような児童生徒に望ましい生活や学習の環境があると、学校しか知らない教員は本気で考えているのであろうか。
いくつかの「放課後デイサービス」や「学童」で実際にその業務に係ってみると、指導員等の「言葉遣い」「指導の仕方」「その日の活動課程」など、事業所が独自に設定する枠の中で、指導員等が個人的な経験や考えで、あえて言えば「学校でそのようなことをすれば必ず問題になる」というような実態があるのである。
しかも、これについては先にも述べたように、文科省か厚生省か管轄が曖昧な上に、地域による独自の目安もあり、改善の動きはあっても、実際のところは、相当に児童生徒は指導員の思惑に振り回されているのである。
驚くべきことは、そのような施設と家庭との結びつきは、かねてからの学習塾と家庭との結びつきのように、学校と家庭との関係よりも良好な場合が多い現実があるということである。
この理由は、月謝などの有償性である面が大きく、さらには、その施設や塾などに「合わない」児童生徒は、そこから排除されてそのような場を必要とする家庭にとっては、子ども本人よりも家庭の事情優先であるからである。
良識のある学校教員が、このような状況に陥りやすい児童生徒を、さらに増やすという方向で、自らの「働き方改革」を主張するのは、個人的にはあり得ても、社会を構築する一員としての職責の放棄に等しいとしか言いようがない。
職責というのは、児童生徒の安全と安心を最も保障すべき立場が学校の教員で、その機関が学校であるという根本的な存在意義に関するものである。
家庭や地域との断絶志向
「いじめ」「不登校」などに関して
学校現場は、問題があれば教育委員会に報告し、途中の段階を経て、最終的には文科省に事例が集約される。
ここでの一番の問題は、報告が「内容」よりも「数字」が優先するということである。
実際に経験したこととして、個々の事例について現場の教員は知っていても、残念ながら、例えば「いじめ」が「何件」、「不登校」が「何人」というように、報告された「数字」が学校の管理職の責任、その管轄する教育委員会の責任、などとされるので、管理職も教育委員会も実際よりも「数字」をできるだけ少ないものにしたい。
その結果、「いじめ」が隠ぺいされ、「不登校」が児童生徒の立場ではなく「解決」される傾向が強くなる。
つまりは、管理職や教育委員会の「保身」のためなのである。
実際に「いじめ」や「不登校」で苦しんでいる児童生徒や保護者のことなどは、管理職や教育委員会の自分たちの今後のために、踏みにじることが常態化してしまう。
ところが、問題はそれだけであるはずはない。教育現場で児童生徒と一番身近に接している教員が、「気づかなかった」というようなことでは、教員としての資質も感性も持っていないということを露呈しているのである。
学校教育が始まってから150年以上、いつも児童生徒に一番近いところにいるのが教員である。多忙さは今に始まったことではない。それでも児童生徒の日々の生活や心身の状態を少しでも把握するために、先人たちは、さまざまな努力をして、自らの待遇や労働環境が劣悪であろうとも、児童生徒に寄り添うための工夫をしてきた。
学ぶべきことはそこである。
部活などの課外活動や修学旅行などの特別活動
「部活をなくせ」と言っている教員の数、または内心そう思っている教員たちと、部活や課外活動で、より児童生徒との関係を作ったり、生活や生育環境を整えたり、「いじめ」や「不登校」を未然に阻止したりすることができている教員の数を比べたとき、実際にはどちらが多いであろうか。
たとえば修学旅行や宿泊学習などのように、学校行事として特別活動を行う場合、以前は引率者は児童生徒から徴収する費用の中に引率代も含まれている時代もあったが、かなり前から自分の食費や宿泊代は教員が個人負担をし、それをあとから時間外労働として認められる分を補填されるようになってきた。就寝時間に児童生徒の安全や安心を確保するための仕事も、当然ながら引率教員に支払われているのである。
修学旅行や宿泊学習で、自然災害などを除いて事故や事件がある場合は、それまでの教員の指導の問題として取り扱われても然るべきものなのである。教員として児童生徒の日常の安全や安心を確保するために、修学旅行や宿泊学習に向けての準備や学習などの取り組みは、普通は絶好の機会として指導力を発揮すべきところである。
先にも述べた自然災害のほかに、引率教員のその場での判断の間違いなども、検証されるべき事例として、隠ぺいしたり、関係した児童生徒の固有の問題として処理されたりすることは、あってはならないことである。その上で、昨今の事故や事件を見れば、普段の生活指導や十全な下見、想定されるリスクへの危機管理などが、きちんとできていれば防げたはずのものが多い。にもかかわらず、「そんなことまで教員の仕事か」などと放言する一部の教員や、実際に事故や事件が起こったときに責任逃れをする教育委員会等の姿を見ると、学校教育の質の低下は極まってきたと言わざるを得ない。
学校教育本来の職責
授業改善の努力の希薄さ
学校は授業が正常に行われていれば簡単にほころぶものではない。そのために先人たちは、授業改善のために多大な尽力を惜しまなかった。「教材研究する時間がない」などというのは、ただのナマケモノの言い分であるとしか私には聞こえない。まして、「授業研究の価値が不明」などと声高に言う風潮は、授業そのものに対する考え方が余りにも稚拙だからとしか私には思えない。
確かに、以前よりも格段に「ムダな研修」は増えている。特に教育委員会が体裁を整えるために行う「研修会」は、そのための努力を「やっている」という、これも「数字」ありきのものがほとんどと見受けられる。「何回」とか「何人」とか、その「数字」を整えるために本来やるべきこと、ここには「休養をとる」ことや「自主的な研究」をするということも含むが、それを教育委員会や管理職や何とか主任とかが、自らの業績の数値的証拠作りのために、不必要に現場の教員を振り回す。
今もあるようであるが、進路指導担当や学校全体の、生徒の進学先が「数字」だけが判断基準になっているようなものと同じである。「どこの大学に何人合格者を出した」というような進学塾の安っぽい宣伝文句のようなものが、中学や高校の進路指導でもかなり以前から当たり前のように行われていたのである。
しかしそのことがいかに無用でムダなことであるかは、既に社会的にもかなり理解が広がって来ているのも事実である。それなのに、教育委員会や学校現場では、内容の希薄な「研修会」が無暗に多い。しかもリモートや動画閲覧といった「手抜き」のものが増えて、時間の浪費が増えただけである。
「休養」に勝る「研修」はない。
教員不足改善策と学校教育の質の低下
国全体の少子高齢化が進む中で、教員採用試験の受験者数が減るのは当然のことであるにもかかわらず、何を根拠に「教員の成り手が減った」と特筆して騒ぎ立てているのか理解不能である。先日来の報道にもあったように、例えば、バスや列車の運転手も成り手不足で路線廃止もやむなしという状態なのである。
そして、教員不足改善策として、教員採用試験の内容を減らしたり、教員免許を取得するための要件を緩和したり、学校教育の質の低下を招くようなことさえしている。教員は「働き方改革」と称して、仕事量の削減や俸給の増加を言い、教員の成り手を確保するために行政は専門職としての教員養成や教員採用試験をどんどん骨抜きにしていく。さらには学校の教育内容の削減のために「文句が出にくい」ものから切り捨てようとさえしている。
指導要領の改訂も目前に来ているが、前回、前々回の改訂のときに、10年後、20年後のこの国の社会構造や時代の変容をきちんと見通したものであったか、あらためて見直すべきときである。そうでなければまたこれから5年、10年と社会の実態とかけ離れた学校教育になる恐れがある。また、教育改革などを行うためには、20年前に口先だけで理想を語り、そのための財源の確保をしなかった、あるいは、できなかったという事実を、あらためて考えるべきである。
非常に貧相な考えとして、学校教育から「習字」や「そろばん」などをなくしてしまえばよい、ということを易々と口にする教員の発信を見た。そういうことを言う教員は、例えば小学校の社会科で何を子どもたちと授業しているのであろうか。学校から「習字」や「そろばん」がなくなったら、それだけで壊滅してしまう地方自治体があるのである。教員が軽々に口にすることではなかろう。そのような教員とともに未来に向けてどのような授業を創造しているのか見てみたい気がするほどである。
今回のまとめ
雑感なので、ここのところ思うところを羅列した。
予め再確認すれば、同じ国、地方自治体、学校によって、その実態はさまざまであり、場合によっては、管理職の配置転換や市町村合併などによって、学校教育は、どこでもいつでも同じ、と思いこむのは間違いでしかない。
気になるのは、自分たちの「働き方改革」を言う教員で、学校教育の犠牲者となった児童生徒やその保護者のことを、真剣に考え、主張と責務をつじつまが合うように発信している者が極めて少ない、ということである。
保護者や地域が、学校に文句を言いに来るのは、今に始まったことではない。それをうまく受け止めて来たときは、問題が最悪になる前に、食い止めることができている例もたくさんあった。
今は、文句を言いに来ると、あたかも「敵」と遭遇したようなことを言う者もいる。浅はかであるとしか言いようがない。
「初任や3年や5年や10年ぐらい経験しただけで、学校教育のことをわかったような文句や愚痴を言うな」という発信を見た。その通りだと思う。
私自身、途中で大学や不登校の学習塾のようなものなどを経験したが、小学校だけで約30年現場の教員を経験している。
時代も昭和の終わりから、平成、令和と3つの時代で現場を経験した。
学校教育の内側だけでなく外側からも見る機会もあり、それぞれの立場で、児童生徒や保護者の考えやさまざまな家庭環境にも接してきた。
今後は、もっと具体的な事例や、実際の指導法や授業改善の仕方、さらには、最も大切な、教員不足解消のための私案を提示したいと考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?