この社会は不健全だと思うものの...
富が富を生む資本主義社会。
地方に移住してはや一ヶ月。生活圏内の小売店の品揃えや価格帯の相場にも慣れてきたことで、取るに足らない個人投資家として世間の潮流を掴むべく、世の中を観察する習慣が戻りつつある。
ディスカウントストアで夕飯の食材を調達する際、レジを担当していたのは高校生くらいだろうか。髪を染めているが、お金欲しさにアルバイトをしているのだろう。接客はマニュアルに準じていて、至って丁寧な辺りが、いかにも根は真面目な田舎っぺ感が滲み出ていて、垢抜けていないギャップは嫌いじゃない。
都内の学生であれば、もっと煌びやかなお店の接客や、単価の高い居酒屋に流れて、ヤンチャな高校生などスーパーのレジ打ちなんてやらない。若しくは店側が採用しない。結果としてレジ打ちは外国人や高齢者に塗れているから、なんだか10年前くらいの都内にタイムリープした懐かしい感覚すらある。
そんな感慨に浸りながら賃金労働から卒業した私は、会計を済ませた際に、つくづくおかしな世の中だと思った。
生活インフラの維持に必要不可欠で、成り手がいなくなったら困るような、エッセンシャルワーカーほど低賃金な傾向にあり、投資家や金融業などの、労働によって直接的に付加価値を生み出していない者が、多くの富を手にしている。
元鉄道員の性として、社会に必須な職種に就いているブルーカラーを蔑ろにして、ホワイトカラーを厚遇する傾向にある現代は、社会構造としては歪だと思う。
その反面、現状に不満があるなら、文句を言うよりも、ずるいと思う側の立場に回ってしまった方が賢しいと考え、個人投資家として生きる道を歩んでいる自分が居る。
結果として、労働によって付加価値を生み出さずとも、富が生んでくれた付加価値によって、現役世代は働かず、学生が時給1,000円にも届かないアルバイトとして、エッセンシャルワーカーとして社会を支えている、摩訶不思議な冒頭の構図が出来上がる。
ポスト資本主義の不在。代案なき異見。
こんなのどう考えたって不健全だしおかしい。高卒で社会に出て、低賃金な持たざる者から、質素倹約な生活によって可処分所得の半分近くを、資産運用の種銭として捻出。運用に回して20代ながら、老後資金問題が解決する程度に、持てる者側になった気分でいる今でもおかしいとは思う。
しかし、それが資本主義社会の定めであり、現代人はポスト資本主義相当する〇〇主義を未だ見出せていない。
代案のない状態でいくら異見したところで、「具体的に何をどうすれば良いのか?」の一言で議論が行き詰まり、振り出しに戻ってしまう以上、現行のルールをハックするか、革命を起こす側に回る他ない。
とはいえ、後者は内乱罪のリスクがついて回る以上、前者で立ち回る方が賢しい選択と言える。だから資本が物言うこの社会を、いかに手持ちのカードでハックするかを、社会に出てからずっと考えた結果、私は個人投資家に行き着いた。
資産形成=(収入-支出)+(資産×運用利回り)
言わずと知れた橘玲さんの、お金持ちの方程式である。多くの人は収入を増やそうと必死になる。だから良い成績を修めて、良い大学を出て、良い会社に就こうとする。
その結果、学歴至上主義が蔓延り、大卒でホワイトカラーに溢れた者が、ブルーカラーに就き始め、競合する高卒は肩身どころか、職業選択の幅そのものが狭いのが現状である。故に賃金労働者として高収入は期待できない。
だから私は、誰もやりたがらない領域まで、徹底して支出を削減し、資産運用の種銭を捻出して、それらを適切に運用するための知識、経験を養える領域に絞り自己投資を行ってきた。
低収入で実家が太い訳でもない以上、社会に出た時点では資産もゼロだから、支出を減らすか、運用利回りが市場平均を上回る形でしか、持てる者側に這い上がる術はないと考えた。
これはあくまでも賃金労働者の枠組みで考えた一例で、リスクが取れる人なら、収入を増やすのに、副業としての個人事業や起業の選択肢もある。
ただ、経験上、副業を軌道に乗せるよりも、地道にファンダメンタルズ分析を学びながら、金融市場で利鞘を得る方が、性に合っていて目に見えた成果が出て、易しいように感じられたため、私は投資家路線を選んだに過ぎず、資本主義をハックする手法は、人の数だけ存在するだろう。
持たざる者の特権。
しかし、この国の難しいところは、資本主義と対照的な関係である、民主主義とのハイブリッドで舵取りをしている点にあり、その結果、強者と弱者に易しく、中間層が無理ゲーな社会となってしまった。
おまけに島国特有の村社会的な風土が根強く、技術革新などで生まれた新しい強者は、既得権益を脅かしてはいけない不文律があり、そこに触れると袋叩きにあって潰される、まるで社会主義的な側面まで混在している。
ひとり勝ちが許されず、それでいて苦労信仰巣すら蔓延る社会なら、そこから距離を置き、弱者側に近付けるのが最適解となってしまう辺りに、やはり歪さを感じずにはいられない。
そうした制約の中で捻り出したのが、端から優等生を演じようとせず、表向きは落ちこぼれ感を出しておきながら、実態としては割合良い生活をするイタリア風な戦略である。
表向きは経済危機だなんだと、先進国の中では落ちこぼれ感が出ているものの、工業製品は世界中で売れる良い物を作っているし、南北で雰囲気がずいぶん異なるものの、ステレオタイプでは陽気な国民性と、日本人よりもよっぽど楽しそうな生活を送っている気がする。
私はそれに倣い、働きもせず、金融資産所得の分離課税を駆使する形で、表向きは低所得者として落ちこぼれ感を演出して、税金や社会保険料から合法的に逃れつつ、公共施設などの便益はただ乗りして生活費用を抑えながら、金融資産所得で暮らせるつもりで早期退職に踏み切った。
今年だけは前年所得の絡みから、後追いで住民税と社会保険料がのしかかるものの、それさえ乗り切れば、晴れて国民年金に匹敵する金融資産所得を有しながらも、社会的には落ちこぼれとして重税から逃れながら、昼間から酒でも飲んで月曜から夜ふかしの取材を受ける人々のように、割合楽しく暮らせる算段である。
エリートの素質なくして生まれた以上、同じ優等生の土俵で闘ったところで養分になるのが弱肉強食の掟である。それならば、社会の歪みを最大限利用して、エリートがまず選ばないであろう、競争しない道を突き進めるのは、失うものがない持たざる者としての特権なのかも知れない。