権利と義務は表裏一体
Z世代男性の3割、男女平等「やり過ぎ」
ある日の晩、私は銭湯で一日の疲れを癒していた。田舎かつ閉店間際ということもあって、私以外の利用客は居らず、貸切状態で快適そのものだ。時計の針を見ると閉店15分前だったため、身体を拭いて脱衣所へ向かった。
脱衣所の扉を開けたところ、居ない筈の誰かが居たが、いかんせんメガネを脱衣所に置いてきたのでよく見えず、目を細めたところ番台の老婆が店仕舞いをしていた。
いつもなら5〜10分前くらいに老爺が片付けに入るが、どうやらもう客が誰も居ないと思い込んで片付けていたものと思われる。単純に私の視力が悪いだけなのだが、状況が状況で睨まれたと勘違いしたのか、「あら、ごめんなさい」と直ぐに出ていった。
幸か不幸か、私は鉄道員という出自で、職場内にある泊まり勤務者用の大浴場が使い放題という役得があったことから、赤の他人に裸を見られることへの抵抗感が皆無なので、ことなきを得ているものの、性別が逆だったら大問題なんだよなぁ…とモヤりながら着替えて銭湯を後にした。この構図はお手洗いの清掃でも同じだ。
都市部で通勤するのに女性専用車両はあっても男性専用車両はない。映画館などでレディースデーはあっても、メンズデーはない。3年ほど前にTOHOがウェンズデーにしたことは評価しており、映画館は専らTOHOしか使っていない。
婚活市場でも入会金や会員費を支払った上で、会食費用も男性持ちと、経済的負担が大きいだけでなく、入会審査も定職に就いていて、かつ年収300万円以上みたいなハードルが設けられがちである。
かつての日本は男尊女卑社会だったのかも知れないが、男女雇用機会均等法が浸透した、男女平等な21世紀に生まれ育ったZ世代からすれば、男性側が不利益を被る形の女性優遇を”平等”と謳う、単なる女尊男卑社会への違和感を隠せず、結果「やり過ぎ」だと思われているに過ぎない。
最も不平等、不公正な扱いを受けているのは”男性”と回答するZ世代の心理
そもそも、学生時代に国語の授業で、権利の対義語は義務と習ったはずである。男性に経済的な負担が偏っていたり、女性が経済的に優遇されるのが罷り通っていたのは、大昔は女性に選挙権が与えられていなかったり、経済的に自立することに難儀した、すなわち経済的に自立する権利がなかった時代の名残だとすれば合点がいく。
しかし、現代社会はどうだろうか。男女の賃金格差は女性が子どもを産むことによるペナルティと、いわゆる”3K仕事”に従事しない割合が男性よりも高いことで大方の説明がつくことが、ノーベル経済学賞を受賞したゴールディン氏によって証明された。
つまり、多くの場合で同一労働同一賃金。雇用機会も均等に与えられ、自由意志で社会に参画した結果が、会社役員の女性比率が少なかったり、男性ほどガツガツ稼いでいない全体像が、平均値として表れているに過ぎない。
別に何かを制限したことで生じた差異ではない以上、男性を蔑ろにする形での女性優遇は筋違いであり、会社役員や理系大学に女性が少ないからと女性枠を設ける不条理が罷り通るのなら、同様に女性が少ない泥臭い3K仕事にも女性枠を設けて男女比を半々にするべきではないだろうか。
結局のところ、一部の界隈で権利ばかり主張しては、義務に相当するであろう都合の悪い部分は守らず、男性に押し付ける魂胆が滲み出ていることで、最も不平等、不公正な扱いを受けているのは、自分たち男性であると回答するZ世代が表れているものと考えるが、いかがだろうか。
平成の初期くらいまでは、女性社員は寿退社する前提で雇用されていた都合上、年功序列、終身雇用は事実上、男性にのみ与えられた”特権”であり、その代わり、出産を機に経済的に自立するハードルが上がる女性を養う”義務”を負っていた。
しかしZ世代に限らず、男尊女卑社会の特権が失われてから社会に出ている若年男性からすれば、同一労働同一賃金など少なくとも経済面では”平等”にも関わらず、負担や責任ばかり押し付けられる理不尽な構造となっている。
これといった権利がないのに、義務だけ負うのが誰だって嫌なのは明らかで、その歪みが婚活市場から男性が姿を消したり、焼肉チェーン店の食べ放題で、期間限定とはいえ女性だけ半額キャンペーンで炎上みたいな状況を生み出していると考えれば、おおよその辻褄が合う。
ノブレス・オブリージュの精神が必要
そもそも論、フェミニズムは「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」であり、決して女性優遇なんかではない。
いわゆるフェミニスト界隈で袋叩きにされがちな”弱者男性”も、本来であれば弱者男性のままで尊重されなければ、言っていることと、やっていることが矛盾している訳で、つまりはそういうことなのだと私の中では合点がいく。
フランス語に「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。直訳すると「貴族に義務を負わせる」だが、これは階級社会の名残で、現代風に言い換えると、財産や権力、高い社会的地位を持つ上流層は、社会の模範となるように振る舞う義務があるとする考え方だ。
つまり、何かしらの権利を得るということは、同時に社会の模範となるように振る舞う義務を負うわけで、権利ばかり主張して義務を守らないような、私利私欲は許さんという不文律であり、ある種の同調圧力でもある。
しかし、今の日本社会全体を見渡すと、「武士は食わねど高楊枝」という似たようなことわざがあるにも関わらず、この考え方が欠落している強者がまぁ多い。
失われた30年で、一円にもならない名誉よりもカネ、カネ、カネ。社会的弱者である女性や高齢者は保護する一方で、弱者男性は自業自得。見えないところで勝手に野垂れ死んで貰って結構。
そんな優生思想染みた発想で弱者を尊重せずに虐げると、一定の確率で、散々冷たく遇らわれた社会に対して、最後に復讐する形で牙を向くのが、無敵の人事件ではないだろうか。
弱肉強食が自然界の掟だが、文明が発達したことで生産性が上がり、余剰ができたことで弱者を保護することができるようになった意味で、それを克服したのが万物の霊長たる人類の、文明社会ではないのだろうか。
この構造を理解していれば、強者が余剰を独り占めした皺寄せは弱者に向かうのだから、ノブレス・オブリージュは理に適っている訳で、現代社会こそ、この精神が必要不可欠であり、社会的強者で下駄を履いている自覚がある者は、権利と義務が表裏一体であることを、今一度自分自身に問いかける必要があるのかも知れない。
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