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死についての考えをまとめる

じいちゃんが余命宣告されてから改めて考えるところがあり、死についてのいろんな本を読み始めました。自分の意見がどう変化するのか興味があるので今のうちに自分の現在の考え方をまとめていきたいと思います。

 まず、私の様々な価値観は、今まで読んできた本や漫画、アニメ、映画、などから吸収され、また、家族や友達、先生や恋人から影響を受け、何度も変化してきたことをここに記しておきます。

 これはつまり、今後絶対的に変化することがない考えではないということです。23歳、入籍をまじかに控えた一女の「今の」価値観のまとめです。

「死」について

死は悪ですか?私は死は救済だと考えています。

この話をするにはまず、魂があるのか、心はあるのか、ということについて私の意見を述べなければいけません。

私は魂も心もない(というか肉体の一部、肉体と別のものではない)、と考えています。

私たちの感情や自我と呼ばれるものは単に脳が神経伝達物質を放出し、様々なところに作用され、そこに感情が生まれる、それを私たちは感情や自我や心や魂と呼んでいるのではないかと思います。

魂と心と感情と自我を一緒くたにしてしまうのは少々雑すぎますが、要するに私は、人間は、ただの炭素の塊であり、そこに脳があるため、(人間が言う)感情、魂なるものが付随すると考えています。

となると、魂(感情)と肉体は別物である。肉体の死後、魂だけが残り、死後の国(天国や地獄)へ行く、や、輪廻転生を繰り返し、様々な生を繰り返し、解脱(輪廻からの解放)するまで魂の修行を行う、などの宗教を否定することになります。

まあ、信仰はどうであれ、たぶん私は一元論者なのでしょう。

(独学での言葉の使用なので間違いがあると指摘していただけると幸いです。今後の勉強になります。)

もし、魂というものがあり、それを肯定するのなら、自我(私が私であるということ)が死後も永久に続くことを、魂の存在を信じている方は望んでいるということでしょうか。

天国や地獄に行き、輪廻で修行する。

それは自我が消滅しないということ。

つまりそれは不死の肯定だと思うのです。

仮にそうだとして、私は全くそうなりたいとは思わないのです。

天国や地獄があったら面白そう。輪廻があるのなら次は木か貝か猫になりたい、と思いはしますが、できれば、死は完全に死であってほしいと思います。

私の考えでいうと魂(自我)も消え去り、輪廻もなく、ただただ無であってほしい。(そういう宗教があるのなら教えてください)

だって、肉体の死後も魂(自我、記憶?)が残るとするなら、生前の自分の思考の特徴や悲しみ苦しみ、もちろん嬉しかったことも幸せだったことも何かのクラウドのようなところに残るということでしょうか?

Googleフォトに残している写真を取り出すように魂になっても、生きていた時の私に依存して、記憶を見たい(?)と思うのでしょうか?

私は魂(自我、記憶)は肉体の付属品程度にしか考えいないので、私が死ぬことによって、私の自我も記憶も何もかもすべて消えてくれ、と思います。

何もかもから解き放たれるのが「死」であり、それが全員平等に訪れるので「死は救済」である。と思っているのです。

「自我、記憶」について

ここまでで、私は魂は肉体の一部であるということ。そのため肉体の死と共に自我や記憶から解き放たれることを望んでいる。ということが理解していただけたかと思います。

そんなに最悪な人生だったのか?と思われる方もいるかもしれませんが、そうでもありません。近々最愛の人と入籍する幸せな人生であります。

ただ、私の考えるところによる死によって得られる「無」を望んでいるのです。

生きている間は何も感じず、考えない、ということはできません。

無我の境地や悟り、などの言葉がありますが、考えて考え抜いた上でのその場所であると私は考えます。

そう、この自我や記憶や感情などが消えることがうれしいのです。

これが死後まで続くなんて絶望ではありませんか?

天国と地獄にも人間関係はありますか?信仰の度合いによってステージが変更されたりしますか?輪廻は自分の望むものになれますか?

勉強不足で恥ずかしいのですが宗教的な考えはひとまず置いておいて、死後でさえも何かとごちゃごやあるのがいやなのだと思います。ただただ無であって欲しい。死によって「私」というものが自我や記憶や人生ごと消え去ってほしい。

では、仮に「自我や記憶が魂と呼ばれる媒体で残る」と考えている人のことを考えてみます。

これはきっと、寂しいのと悲しいのと「無」や「自分が消えること」への恐怖、ではないかと、勝手ながら推測しました。

私は?

私は怖くないのか?

私は身近な人の死が怖いです。

その人達のいない私の生きる世界はとても寂しいものになります。

それが怖いです。その寂しさや喪失感、虚無感、その人に会うことも触れることも声を聴くこともできなくなる。存在が消えるのだから当たり前ですが、その後の世界をうまく生きれるのか…と思います。

だからきっと「魂」があることを望む人がいるのではないか、と思います。魂があれば死後の世界で、または来世で愛する人と会えるから。

私はその人が安らかに最後の時を迎えられることを望みます。

そして死後はその人が想像して信仰していた死後の世界があればいいな、と思います。

自分の死は、そうですね、いまのところ、どうでもいい、と感じているように思います。

残していく人のことは気がかりですが、怖いというよりは、あぁ、やっとこれで何も考えずにすむ、と安堵するように思います。

(このような記事を書くくらい幼いころから毎日何かしらをずっとずっと考えていて、それが好きでもあるのですが、解放されたいとも願っているようです)

私が死ぬので死後の残してきた人も私にとっては消えさることになります。大丈夫です。主人公が死んだらそのゲームのシナリオが勝手に進まないように、私は私の死んだあとの人々のことなんか知ったこっちゃない、とさえ思っています。

(もしかしたら、この世界は私用に用意されたステージではなく、本当に実在していて死後もこの世界が続く可能性もあるので彼のために生命保険には加入しますが(笑))

魂があって、死後の世界や来世があるとするなら、現世で親しかった人と会いたいか、と言われれば、会いたいような、会いたくないような(笑)

愛する人が先に旅立っても天国で会えるから、と思うのはとても生きる糧となると思います。その人が死後の世界を望んでいるとすれば、の話ですが。

私も最愛の人が死んだらどこかで待っていてほしい、私の死後、また会って生きていた時のように喧嘩したり愛し合ったりしたいと考えるかもしれません。

でも、それなら、死ぬ前にしとけよ、とも思います。

「死」は確実であるということ

冒頭にあったようにじいちゃんが余命宣告されています。きっと死んでから後悔して、死後の世界で~…なんて考えるのは何か性に合いません。もしそうなった場合はとことん悔やみ、他の生きている愛する人が死ぬ前には、

生きてる間に、愛してると伝えて、誰かが死んでから後悔しないような生き方をするしかないと思っています。

もちろん、突然の事故や、病気で急死されて悔やむことはきっとあります。

じいちゃんが余命宣告されていると、じいちゃんの意志に反して父が私たちに漏らしたのは私にとっては幸運でした。じいちゃんは私たちに何も言わずに死ぬつもりだったのだろうと思います。私に連絡がきたときには死んでいた、となっていたら、きっと祈った事のもないキリストにでも祈って天国でどうか安らかに、私がそっちに行くまで見守っていて。とか思ったでしょう。毎日毎日後悔したでしょう(今でさえしているけど)。もっと感謝を伝えたかった、私は幸せに生きてるよって安心させてあげたかった、愛してるって一度も言えなかったって。

人の急死で自分の行いを悔やむのも人生かもしれませんが、

でも、人がいつかはわからないけど死ぬことは分かっていたでしょう?

それは確実でしょう?

「死」だけは確実なのはわかっていたでしょう?

だから生きている間の恥なんてクソほどどうでもよくて、どんだけ恥ずかしくても、プライドがあっても、愛してると伝えたがいいに決まってるんです。

死後の世界があろうとなかろうと、絶対に確実に人は死ぬのだから。

それだけは避けられないのだから。

まとめ

私は魂は肉体の付属品だと考えており、肉体の死後は魂も記憶も消え、完全に「無」であることを望んでいる。もちろんそれは自身の死後、愛する人にも天国か地獄か、はたまた来世で会える、ということも否定している。だからこそ、あるかどうかもわからない死後の世界にすがるのではなく、生きている今この瞬間一分一秒を大切に、愛してると愛してる人全員に伝えることが大切だ。むしろそれが生きている間の課題の一つではないかと考えている。

最後に

死後の世界がないと考え、どの宗教も深く信仰しない、というのはとても苦しい生き方だと感じています。今はいろんな宗教の本を読みましたが、この感じがいいな、と思うところがなかなかありません。神が存在し、信仰していれば、死後大切な人にまた会える、という考え方は、大切な人を急死で亡くされて後悔が残っている方にとってとても救いになる考えだと私は思います。私は私の死後が「無」であってほしいと思っているだけであって、死後の世界が存在するという考えを否定する記事ではない、とここに記しておきます。

こればっかりはどうやっても証明できないため、どんな考え方も宗教も、否定も肯定もしませんが、私はこうあってほしい、だから、こう生きたい、という記事でした。

最後までお付き合いくださってありがとうございました。

もっといろんな経験をし、知識を吸収して、私の考えが変化したときはまたそのことをnoteに書きたいと思います。

おわり

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