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「贈与」に拡声器は不要なんだ ー 『世界は贈与でできている』を読んで

畏友、Shimoyamaさんのブログがきっかけで読んでみました。


贈与は、受け取ることなく開始することはできない。
贈与は返礼として始まる。


どうして投資、資産形成を始めたのですか?きっかけは?

インタビューで最初に質問されることがほとんどです。

必ずこのように答えます。

長男を授かって、彼の将来のための学資をつくりたいと考えたからです。

このように考えた理由は、私自身が大学を卒業して就職、自立するまでの環境を、両親や祖父母、家族、親族が様々な形で整えてくれたからです。当然、経済的なもの、お金の側面はとても大きいものがありました。家業を取り巻く環境は、時に好況ではありましたが、苦しい、しんどい時期がほとんどだったと想像します。しかし、それでも、両親は、私を含めて3人の息子に大きな不自由を強いることなく、大学卒業まで面倒を見てくれました。この環境整備、支援は「贈与」、この本でいうところの「無償の愛」だったと感じます。息子を授かった際の「この子のために準備しなきゃ」という強い動機は、この「贈与」へのお返しという面があったのを気づかされました。

この本を読み終えて、ふと思ったのです。私が両親から贈られたものは何だったのか、と。経済的な支援よりも、もっと大事なコトが贈られていたのでは?と。

上述の通り、家業はしんどい状況でした。父はことあるごとに私たち息子に言い聞かせていました。何度も何度も。

「申し訳ないが、お前たちに大きな遺産を残してやることは無理だ。わかってほしい。でも、その代わりに、学資だけは何が何でも面倒をみてやる。自分の体に、頭に、身に付けたものは絶対に誰も奪えない。そうしたものを身につけるための学ぶ環境を自分の手で掴み取りなさい。」

父が私たちに届けようとしていた本当の贈り物はこのメッセージだったのだ。この本を読んで、それに気づかされました。そう、私自身も息子たちに、このメッセージを添えなければダメだ、と。より良く学ぶ環境を用意してあげるだけでは不十分なんだ、と。

そんなこんなを考えていると、3人の投資家の顔が頭に浮かびました。

藤野英人さん、鎌田恭幸さん、奥野一成さん。

このお三方が運営している投資信託にお金を託しています。おかげさまで、その投資信託に組み入れられている資産の評価は時間の経過とともに高まっています。実現させる、お金に換えるのはまだまだ先のことですが、現時点で大きな経済的なリターンを頂いている、と実感しています。

しかし、このお三方、そのチームの皆さんから頂いている、贈られているモノ、コトは「資産の評価」だけなのだろうか、と感じたのです。もちろん、経済的なリターンはとても重要です。でも、皆さんからそれ以外に受け取っている、めっちゃ大事なものがあるのでは無いか、と感じたのです。

それは、

社会に対して持続的に価値を提供し続けることが出来る会社の関係者、オーナーになること。そうした会社のオーナーになることで、時間の経過とともに価値の蓄積が進み、同時に、社会も進歩する。同時に、そうした会社を適性に評価し、その評価でスムーズに換金出来る資本市場が、活発に、かつ、健全に日々、機能していることが極めて大事、そうした市場があってこそ、社会の進歩はさらに加速できる。

こうした投資についての自分なりの捉え方、価値観を今、持つことが出来ています。こうした価値観を形づくるのに、多くの投資家の皆さんから沢山の気づきや学びのチャンスを提供していただきました。とりわけ、この御三人から大きな影響を受けていることに気づきました。

藤野さん、鎌田さん、奥野さんから受け取ったもの、贈られたと感じたモノ、コト、考え方を、何とか誰か(それは誰かわからない、宛先不明で)に贈り届けたい、そんな気持ちが多分、上の記事をつくる根っこにあったのだ、と感じました。

この本で印象に残っているのがこのイメージです。

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今の社会(青い円がそれを表しているとお考えください)はどのような状態にあるのか、私には左側だと感じました。今年に入って起きたことを考えれば、左側の状況がさらに深刻になっている、という認識です。つまり、非常に不安定な中で何とか、この社会は平衡を保っている、ということです。課題はウィルスだけではなく、非常に様々なものが既に存在していましたが、それらがいっそう複雑化しているのが現状です。そうした現状認識を基にして株式投資を考える際、どこに資本を配分するのかと考える際、市場全体に満遍なく、という考え方はどうなのだろうか、ということでした。それでは未来への「贈与」たり得ないのでは、と。もちろん、自分の資本をどこにどう配分するか、それは人それぞれで他人がどうこう言う種類の問題では無い、それは分かっています。でも、本当にそれでええのん?と、やっぱり、何とか誰か(それは誰かわからない、宛先不明で)に贈り届けたい、そんな気持ちこそが、noteの創作を強く、熱く、押しているのだなあ、と気づきました。

次に考えたことがあります。こうした「贈りもの」を誰に届けたいのか、と。

仰かおるさんの記事です。

小さな願いを叶えるのに、大きな拡声器は要らない

いつ誰が訪れてもいいように。

この言葉が強くハートに突き刺さりました。

Twitter にブログやnoteの記事の更新告知って要るのかな?ということで、ちょうど今、それを取り止めているところです。実際、PVは減少しています。でも、それで良いんじゃないか、って考えています。特にTwitter は拡散されやすい、拡声しやすい仕組みになっています。「贈りもの」の中身をしっかりと確かめる暇なんて不要です。一つボタンを押せばばら撒けます。

上述の通り、宛先不明で誰かに、私の発信を贈りたい、そう強く思っていますが、一方で、言葉を選ばずに言えば、贈りたくないなあ、と思っているところに配達されてしまうんですよね。

ツイートしなくたって、仰かおるさんが表現されたように「日々、家の前を掃き清め、打ち水をして整える」みたいなことで、願ったような贈り方が出来ることだってあることも経験しました。

この記事のトップの画像に風船を空に放つ絵を使わせて頂きました。こんなイメージなのかな、と。でも、今のTwitter の状況って、そういう風に届いた風船が気に入らないと「邪魔だ!誰だ!こんな風船を飛ばした奴は!」と拡声器で喚く人が沢山いる、そんな感じではないかとさえ思われます(被害妄想?)。

本の中では、こんな指摘もされています。

「贈与か交換か」という二者択一ではなく、その両者を混ぜ合わせた、社会を作り直す道があるのです。

「交換」という色合いを混ぜた発信の仕方が「有料記事」なのかも、と感じました。宛先不明で飛ばした風船にケチを付けて、しかも、それを方々に喚きまくる人には決して届かないように、という仕掛けとして。

以前にも書きましたが、Webでの発信では「ちょっとでも誰かの役に立ちますように」と意識するようにしています。そういう意味で「贈り物」の色彩があると思うのです。どんな風に贈りたいのか、届けたいのか、そんなことを考えさせられる読書となりました。


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