敬体・常体、口語体・文語体(散文について・03)
*「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」
*「壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)」
*「顔(散文について・02)」
今回は、日本語の散文の文体についてお話しします。
*間違っていますか?
灰谷健次郎の小説に『日曜日の反逆』という短編があります。
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国道で「ヒッチハイクの合図」をしていた少年を、男は車で目的地に送り届ける。その前の日曜日にも同じことがあった。自分については曖昧な話しかしない少年は、息子が飛び降り自殺をしたという男の話を聞いて「嘘だろ」と言う。
日曜日ごとに少年と約束した場所に車をとめて、少年を待つようになる男。少年に「虚言癖」があると男は決めつけるものの、放ってはおけない。一向に約束の場所に姿を見せない少年が以前口にした言葉を思い出し、男は少年の「領分をおかす」――。
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こんなふうに物語は進行するのですが、互いの素性を知らない男と少年が腹の探り合いをする過程で、二人がそれぞれどんな背景を持つどんな性格の人間なのかが読み手には不明なままです。
作中人物が謎をかかえると同時に、作品の外にいる読む人もサスペンス状態に置かれるわけですね。
この人はいったい何ものなのか? 何を考えているのか? 相手の腹をさぐる二人の作中人物のキャラクターの揺らぎが、多面体であるプリズムのきらめきのように感じられてわくわくします。
濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに惹かれる自分がいます。
そんな出会いを繰り返す人生を送ってきたからかもしれません。というか、そういうある意味で刹那的な人間関係しか、ぴんと来ないのです。
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『日曜日の反逆』は大きく二つに分かれます。
前半が謎の提起で、後半は謎解きという様相を呈するのです。
後半では、男が少年の学校をつきとめ、担任の教師と連絡が取れます。そこからの展開ですが、男は少年に手紙は書くし、少年から返事がとどくという具合に、個人的には興ざめしてしまいます(謎は謎のままで楽しみたいのです)。
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少年からの手紙にはクラスの文集が添えられていて、それには少年の詩も収められている。文集にあるクラスメートたちや担任教師の文章から、男は少年の性格をはじめ背景や家庭を推測していく。
文集から男が読み取ったという形で興味深い少年像が浮かびあがる。ここで、クラスメートの詩について少年が「批評」したというエピソードが出てくるのだが、これが興味深い。
「先生、この詩はまちがっています。この詩は常体と敬体を同時に使っているからまちがっています」と発言して担任の教師を驚かせたというのだ。
「そういうことをいいそうな子だ」と男は思う、というこの箇所を読むと、感心している中年男のでれでれした笑みが頭に浮かぶようで苦笑してしまう――。
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少年をめぐる謎が解かれていく――とはいえ、深い心の謎は曖昧なまま――、この短編の後半の展開に「異議申し立て」をしたくなります。アルベール・カミュの『異邦人』の後半つまり裁判の出てくる第二部がなければよかったのに、と思うのと同じです。
【※灰谷健次郎の短編『日曜日の反逆』は、『少年の眼―大人になる前の物語』(川本 三郎選/日本ペンクラブ編・光文社文庫)と『子どもの隣り』灰谷健次郎著・角川文庫)に収められていますが、現在では入手が困難なようです。】
それはさておき、常体と敬体を同時に使っている詩は間違っているという少年の見解には――もちろんこれはフィクションの登場人物の見解なのですが――複雑な思いをいだきました。
本日のこの記事を書こうとして、ささやかな反逆(大人げないですね)というか、ある「実験」をしてみようという気にもなりました。
お気づきになりましたか? どうお感じになりましたでしょうか? 間違っていますか?
*種明かし
さて、さきほど述べた「実験」が何だったのか、種明かしをします。お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、上の文章は「常体(だ・である調)と敬体(です・ます調)を同時に使っている」のです。
とはいうものの、同じ段落で常体と敬体を使うことは避けています。いわば、けじめはつけているわけです。
また、敬体は作品のあらすじを述べる箇所だけで用いて、他の部分は敬体で書いてあります。それが違和感をやわらげる役割を果たしているかもしれません。
もちろん、二つの文体が混じっているのがとても気になったという方もいらっしゃるでしょう。人それぞれです。
個人的な意見を申しますと、その人が好きなように書けばいいと考えています。他人の言葉遣いには口を出さない主義でもあります。
言葉は誰にとっても生まれたときに既にあったものであり、それを真似るという形で学びます。誰にとっても言葉は借り物だということですね。
借りて使っている言葉の使い方は、その人の生活とそれまでの人生のあらわれだと思います。ですから、その人の生きざまを非難したり変えようとしたり否定する気持ちはありません。
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ところで、実験ではないのですが、上の文章にはもう一つ特徴があります。じらすのはやめて、それが何なのかを言いますと、一人称の人称代名詞を意識的に省いているのです。つまり「私」が使ってありません。
こういうのも読む人の違和感につながる可能性が高いのですが、好きなのでこういう書き方をよくします。
上の文章では、一箇所だけ「自分」を使っています。
特殊ともいえる個人的な来歴にもとづいた意見を述べている箇所ですね。この文脈なら「私」を使ってもかまわないというか、積極的に「私」を使っていい部分だという見解もあると思います。
上のようにです。
でも、使っていません。それが癖なのですが、ただ頑固なだけなのかもしれません。
とはいえ、常にこういう書き方をするわけではなく、その時々で変わります。大切なのは、日本語は主語や人称代名詞が省ける珍しい言語だということです。
主語がないという言い方もできますが、個人的には、主語が隠れていると考えています。いずれにせよ、不思議だし面白いですね。
*敬体・常体、口語体・文語体
敬体(です・ます調)と常体(だ・である調)という分け方についてなのですが、最近は口語体と文語体と分けてもいいような気がしてきました。
敬体と常体同様に、口語と文語や、口語体と文語体には、いろいろな意見がありそうですが、個人的には「話すように書くか」、それとも「書くように書くか」くらいのイメージで考えています。
この文章では、みなさんに語りかけるつもりなので、こう書いているだけなのです。結果として敬体となっているとも言えます。
実は「だ・である」という文の終り方が好きではないのです。日記的な文章や小説では「だ・である」と書くことがありますが、書くたびに違和を感じています。
それどころか、「だ・である」と書く自分に嫌悪を覚えることさえあるのですが、これは自分を「俺」と言えないのと似ています。
お断りしますが、これはあくまでも個人的な意見です。「俺」とはめったに言わない女性も、「だ・である」は使うわけですから当然でしょう。でも、自分が使うさいには、そう感じるのです。
ひとさまの用いる常体に対してネガティブな感情を持つことはないのですから、これはきわめて私的な問題だと思います。
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次のような言い方もできると思います。
私にとって「だ・である」調は書き言葉なのです。書き言葉とは、自分の中では独白です。要するに、相手がいない文章なのです。
日記はふつう「だ・である」調で書きますね。日記的な文章だと私もそうしています。
私は小説も書くことがありますが、小説は自分の中では独白に近く、特定の人に向けて書きません。
不特定多数の人を意識はしますが、誰かに向けて書くという心境ではなく、自分の中で独自の世界を作ろうとする。さらに言うなら、自分の中で完結しようとする。
つまり、小説の執筆はきわめて私的な作業であって、誰かが入り込む余地はありません。だから「だ・である」調で書いているのだろうと思います。
小説以外の形式で、ネット上で公開する文章の場合だと、私はどうしても「です・ます」調になります。
みなさんに話しかけているからです。
「みなさん」とは不特定多数の人たちにほかなりません。単純といえばまことに単純明快な理由から敬体を選択しているのです。
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以上をまとめると、「だ・である」調は常体というよりも文語体であり、「です・ます」調は敬体よりむしろ口語体である――となります。
あくまでも個人的な意見であり、私はこんなふうに考えて書いているという意味です。人それぞれですね。
(※新聞や雑誌で、聞き書きや談話やインタビューの記事がありますが、独特の語り口調で書かれていることがあります。有名人への取材をもとにしてライター(ゴーストライターという言い方は失礼ですね)が書く、有名人名義の本にも、その文体が見られます。その種の文章に興味があるので切り取って保存しているのですが、あの文体が新しい敬体あるいは口語体――ネット上でも使えそうです――のヒントになるような気がします。いつか改めて記事にしてみようと思っています。)
ところで、「です・ます」調で書くさいには、語尾が単調になると言われます。私も語尾には気をつけていますが、どうしても同じ終り方を繰りかえす形になりがちです。
語尾の単調さを避けるにはいくつかの方法があるようです。作家の文章を気をつけて読むと、敬体と常体をうまく混ぜて書いている例があり、勉強になります。
見てみましょう。
*谷崎潤一郎作『痴人の愛』より
上の例でお分かりになるように、敬体に常体がうまく織り込まれていて、読んでいて違和感を覚えず、文章の流れも滑らかです。
あの谷崎がやっているのだからとは言いませんけど、必ずしも敬体に統一する必要はないと言えるのではないでしょうか。
また、日本語では現在形と過去形あるいは完了形という、西洋からの借り物である文法用語が当てはまるとは思いませんが、「した・った」で終わるだけでなく、「ある・する」「だろう」というぐあいに自由な終り方をしている例を目の当たりにすると、「そうか、そうすればいいのか」というふうにとても勉強になります。
いずれにせよ、敬体と常体は使い分けろと言われているからとか、それがルールだからという思考停止的な理由で右往左往するのではなく、実際の例を見て自分で考えて判断することが大切だし、また多様な書き方がネット上で実現している現在は、各自が主体性をもって書いていい時代だと思います。
作文は借文だという言い回しを思い出します。自分がいいと思う文章があれば、そのいいところをどんどん借りましょう。
*江戸川乱歩作『鏡地獄』より
上の引用文は、これで一段落なのですが、最初のセンテンスがとても長いですね。ここで切っても書けるだろうと思われる箇所で改行してみました。
敬体では、センテンスを長くすることで語尾の単調さを避けることができるという好例です。
とはいえ、長いセンテンスを読みやすい形で書くことは難しいです。こういう例を見て、その技を盗むのがいちばん手っ取り早い方法だと思います。
乱歩は「それ」「そう」のように前を受ける言葉をうまく使っていますね。上の谷崎の文章でも、そうです。私もよく真似ますが、やり過ぎの感があります。
どんな文体であれ、要は読者が不自然に感じないように書くことなのでしょうが、それは簡単ではなさそうです。精進するしかないという思いを強くしました。
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