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敬体・常体、口語体・文語体(散文について・03)

「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」
「壊れていたり崩れている文は眺めているしかない(散文について・01)」 
「顔(散文について・02)」

 今回は、日本語の散文の文体についてお話しします。


*間違っていますか?


 灰谷健次郎の小説に『日曜日の反逆』という短編があります。

     *

 国道で「ヒッチハイクの合図」をしていた少年を、男は車で目的地に送り届ける。その前の日曜日にも同じことがあった。自分については曖昧な話しかしない少年は、息子が飛び降り自殺をしたという男の話を聞いて「嘘だろ」と言う。

 日曜日ごとに少年と約束した場所に車をとめて、少年を待つようになる男。少年に「虚言癖」があると男は決めつけるものの、放ってはおけない。一向に約束の場所に姿を見せない少年が以前口にした言葉を思い出し、男は少年の「領分をおかす」――。

     *

 こんなふうに物語は進行するのですが、互いの素性を知らない男と少年が腹の探り合いをする過程で、二人がそれぞれどんな背景を持つどんな性格の人間なのかが読み手には不明なままです。

 作中人物が謎をかかえると同時に、作品の外にいる読む人もサスペンス状態に置かれるわけですね。

 この人はいったい何ものなのか? 何を考えているのか? 相手の腹をさぐる二人の作中人物のキャラクターの揺らぎが、多面体であるプリズムのきらめきのように感じられてわくわくします。

 濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに惹かれる自分がいます。

 そんな出会いを繰り返す人生を送ってきたからかもしれません。というか、そういうある意味で刹那的な人間関係しか、ぴんと来ないのです。

     *

『日曜日の反逆』は大きく二つに分かれます。

 前半が謎の提起で、後半は謎解きという様相を呈するのです。

 後半では、男が少年の学校をつきとめ、担任の教師と連絡が取れます。そこからの展開ですが、男は少年に手紙は書くし、少年から返事がとどくという具合に、個人的には興ざめしてしまいます(謎は謎のままで楽しみたいのです)。

     *

 少年からの手紙にはクラスの文集が添えられていて、それには少年の詩も収められている。文集にあるクラスメートたちや担任教師の文章から、男は少年の性格をはじめ背景や家庭を推測していく。

 文集から男が読み取ったという形で興味深い少年像が浮かびあがる。ここで、クラスメートの詩について少年が「批評」したというエピソードが出てくるのだが、これが興味深い。

「先生、この詩はまちがっています。この詩は常体と敬体を同時に使っているからまちがっています」と発言して担任の教師を驚かせたというのだ。

「そういうことをいいそうな子だ」と男は思う、というこの箇所を読むと、感心している中年男のでれでれした笑みが頭に浮かぶようで苦笑してしまう――。

     *

 少年をめぐる謎が解かれていく――とはいえ、深い心の謎は曖昧なまま――、この短編の後半の展開に「異議申し立て」をしたくなります。アルベール・カミュの『異邦人』の後半つまり裁判の出てくる第二部がなければよかったのに、と思うのと同じです。

【※灰谷健次郎の短編『日曜日の反逆』は、『少年の眼―大人になる前の物語』(川本 三郎選/日本ペンクラブ編・光文社文庫)と『子どもの隣り』灰谷健次郎著・角川文庫)に収められていますが、現在では入手が困難なようです。】

 それはさておき、常体と敬体を同時に使っている詩は間違っているという少年の見解には――もちろんこれはフィクションの登場人物の見解なのですが――複雑な思いをいだきました。

 本日のこの記事を書こうとして、ささやかな反逆(大人げないですね)というか、ある「実験」をしてみようという気にもなりました。

 お気づきになりましたか? どうお感じになりましたでしょうか? 間違っていますか?

*種明かし


 さて、さきほど述べた「実験」が何だったのか、種明かしをします。お気づきになった方もいらっしゃると思いますが、上の文章は「常体(だ・である調)と敬体(です・ます調)を同時に使っている」のです。

 とはいうものの、同じ段落で常体と敬体を使うことは避けています。いわば、けじめはつけているわけです。

 また、敬体は作品のあらすじを述べる箇所だけで用いて、他の部分は敬体で書いてあります。それが違和感をやわらげる役割を果たしているかもしれません。

 もちろん、二つの文体が混じっているのがとても気になったという方もいらっしゃるでしょう。人それぞれです。

 個人的な意見を申しますと、その人が好きなように書けばいいと考えています。他人の言葉遣いには口を出さない主義でもあります。

 言葉は誰にとっても生まれたときに既にあったものであり、それを真似るという形で学びます。誰にとっても言葉は借り物だということですね。

 借りて使っている言葉の使い方は、その人の生活とそれまでの人生のあらわれだと思います。ですから、その人の生きざまを非難したり変えようとしたり否定する気持ちはありません。

        *

 ところで、実験ではないのですが、上の文章にはもう一つ特徴があります。じらすのはやめて、それが何なのかを言いますと、一人称の人称代名詞を意識的に省いているのです。つまり「私」が使ってありません。

 こういうのも読む人の違和感につながる可能性が高いのですが、好きなのでこういう書き方をよくします。

 上の文章では、一箇所だけ「自分」を使っています。

 濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに惹かれる自分がいます。
 そんな出会いを繰り返す人生を送ってきたからかもしれません。というか、そういうある意味で刹那的な人間関係しか、ぴんと来ないのです。

 特殊ともいえる個人的な来歴にもとづいた意見を述べている箇所ですね。この文脈なら「私」を使ってもかまわないというか、積極的に「私」を使っていい部分だという見解もあると思います。

 濃密な人間関係を描いた小説が苦手なために、見知らぬ者同士が出会って短時間の交流の後に別れるというストーリーに私は惹かれます。

 上のようにです。

 でも、使っていません。それが癖なのですが、ただ頑固なだけなのかもしれません。

 とはいえ、常にこういう書き方をするわけではなく、その時々で変わります。大切なのは、日本語は主語や人称代名詞が省ける珍しい言語だということです。

 主語がないという言い方もできますが、個人的には、主語が隠れていると考えています。いずれにせよ、不思議だし面白いですね。

*敬体・常体、口語体・文語体


 敬体(です・ます調)と常体(だ・である調)という分け方についてなのですが、最近は口語体と文語体と分けてもいいような気がしてきました。

 敬体と常体同様に、口語と文語や、口語体と文語体には、いろいろな意見がありそうですが、個人的には「話すように書くか」、それとも「書くように書くか」くらいのイメージで考えています。

 この文章では、みなさんに語りかけるつもりなので、こう書いているだけなのです。結果として敬体となっているとも言えます。

 実は「だ・である」という文の終り方が好きではないのです。日記的な文章や小説では「だ・である」と書くことがありますが、書くたびに違和を感じています。

 それどころか、「だ・である」と書く自分に嫌悪を覚えることさえあるのですが、これは自分を「俺」と言えないのと似ています。

 お断りしますが、これはあくまでも個人的な意見です。「俺」とはめったに言わない女性も、「だ・である」は使うわけですから当然でしょう。でも、自分が使うさいには、そう感じるのです。

 ひとさまの用いる常体に対してネガティブな感情を持つことはないのですから、これはきわめて私的な問題だと思います。

        *

 次のような言い方もできると思います。

 私にとって「だ・である」調は書き言葉なのです。書き言葉とは、自分の中では独白です。要するに、相手がいない文章なのです。

 日記はふつう「だ・である」調で書きますね。日記的な文章だと私もそうしています。

 私は小説も書くことがありますが、小説は自分の中では独白に近く、特定の人に向けて書きません。

 不特定多数の人を意識はしますが、誰かに向けて書くという心境ではなく、自分の中で独自の世界を作ろうとする。さらに言うなら、自分の中で完結しようとする。

 つまり、小説の執筆はきわめて私的な作業であって、誰かが入り込む余地はありません。だから「だ・である」調で書いているのだろうと思います。

 小説以外の形式で、ネット上で公開する文章の場合だと、私はどうしても「です・ます」調になります。

 みなさんに話しかけているからです。

「みなさん」とは不特定多数の人たちにほかなりません。単純といえばまことに単純明快な理由から敬体を選択しているのです。

        *

 以上をまとめると、「だ・である」調は常体というよりも文語体であり、「です・ます」調は敬体よりむしろ口語体である――となります。

 あくまでも個人的な意見であり、私はこんなふうに考えて書いているという意味です。人それぞれですね。

(※新聞や雑誌で、聞き書きや談話やインタビューの記事がありますが、独特の語り口調で書かれていることがあります。有名人への取材をもとにしてライター(ゴーストライターという言い方は失礼ですね)が書く、有名人名義の本にも、その文体が見られます。その種の文章に興味があるので切り取って保存しているのですが、あの文体が新しい敬体あるいは口語体――ネット上でも使えそうです――のヒントになるような気がします。いつか改めて記事にしてみようと思っています。)

 ところで、「です・ます」調で書くさいには、語尾が単調になると言われます。私も語尾には気をつけていますが、どうしても同じ終り方を繰りかえす形になりがちです。

 語尾の単調さを避けるにはいくつかの方法があるようです。作家の文章を気をつけて読むと、敬体と常体をうまく混ぜて書いている例があり、勉強になります。

 見てみましょう。

*谷崎潤一郎作『痴人の愛』より


けれど私は、その当時、ナオミ以上の美人はないときめていた訳では決してありません。電車の中や、帝劇の廊下や、銀座通りや、そう云う場所で擦れ違う令嬢のうちには、云うまでもなくナオミ以上に美しい人が沢山あった。ナオミの器量がよくなるかどうかは将来の問題で、十五やそこらの小娘ではこれから先が楽しみでもあり、心配でもあった。ですから最初の私の計画は、とにかくこの児を引き取って世話をしてやろう。そして望みがありそうなら、大いに教育してやって、自分の妻に貰い受けても差支さしつかえない。―――と、云うくらいな程度だったのです。これは一面から云うと、彼女に同情した結果なのですが、他の一面には私自身のあまりに平凡な、あまりに単調なその日暮らしに、多少の変化を与えて見たかったからでもあるのです。正直のところ、私は長年の下宿住居に飽きていたので、何とかして、この殺風景な生活に一点の色彩を添え、温かみを加えて見たいと思っていました。それにはたとい小さくとも一軒の家を構え、部屋を飾るとか、花を植えるとか、日あたりのいいヴェランダに小鳥のかごるすとかして、台所の用事や、き掃除をさせるために女中の一人も置いたらどうだろう。そしてナオミが来てくれたらば、彼女は女中の役もしてくれ、小鳥の代りにもなってくれよう。と、大体そんな考でした。
そのくらいなら、なぜ相当な所から嫁を迎えて、正式な家庭を作ろうとしなかったのか?―――と云うと、要するに私はまだ結婚をするだけの勇気がなかったのでした。これに就いては少し委しく話さなければなりませんが、一体私は常識的な人間で、突飛なことは嫌いな方だし、出来もしなかったのですけれど、しかし不思議に、結婚に対しては可なり進んだ、ハイカラな意見を持っていました。「結婚」と云うと世間の人は大そう事を堅苦しく、儀式張らせる傾向がある。先ず第一に橋渡しと云うものがあって、それとなく双方の考をあたって見る。次には「見合い」という事をする。さてその上で双方に不服がなければ改めて媒人なこうどを立て、結納を取り交し、五とか、七荷とか、十三荷とか、花嫁の荷物を婚家へ運ぶ。それから輿入こしいれ、新婚旅行、里帰り、………と随分面倒な手続きをみますが、そう云うことがどうも私は嫌いでした。結婚するならもっと簡単な、自由な形式でしたいものだと考えていました。
(谷崎潤一郎『痴人の愛』一・青空文庫より引用)

 上の例でお分かりになるように、敬体に常体がうまく織り込まれていて、読んでいて違和感を覚えず、文章の流れも滑らかです。

 あの谷崎がやっているのだからとは言いませんけど、必ずしも敬体に統一する必要はないと言えるのではないでしょうか。

 また、日本語では現在形と過去形あるいは完了形という、西洋からの借り物である文法用語が当てはまるとは思いませんが、「した・った」で終わるだけでなく、「ある・する」「だろう」というぐあいに自由な終り方をしている例を目の当たりにすると、「そうか、そうすればいいのか」というふうにとても勉強になります。

 いずれにせよ、敬体と常体は使い分けろと言われているからとか、それがルールだからという思考停止的な理由で右往左往するのではなく、実際の例を見て自分で考えて判断することが大切だし、また多様な書き方がネット上で実現している現在は、各自が主体性をもって書いていい時代だと思います。

 作文は借文だという言い回しを思い出します。自分がいいと思う文章があれば、そのいいところをどんどん借りましょう。

*江戸川乱歩作『鏡地獄』より


 そのほか、たとえば、サブマリン・テレスコープといいますか、潜航艇の中から海上を眺める、あの装置をこしらえて、彼の部屋に居ながら、雇人たちの、ことに若い小間使いなどの私室を、少しも相手に悟られることなく覗いてみたり、
そうかと思うと、虫目がねや、顕微鏡によって、微生物の生活を観察したり、
それについて奇抜なのは、彼がのみの類を飼育していたことで、それを虫目がねや度の弱い顕微鏡の下で、わせてみたり、
自分の血を吸うところだとか、虫同士をひとつにして同性であれば喧嘩けんかをしたり、
異性であれば仲良くしたりする有様を眺めたり、
中にも気味のわるいのは、私は一度それを覗かされてからというものは、今までなんとも思っていなかったあの虫が、妙に恐ろしくなったほどなのですが、
蚤を半殺しにしておいて、そのもがき苦しむ有様を、非常に大きく拡大して見ることでした。
五十倍の顕微鏡でしたが、覗いた感じでは、一匹の蚤が眼界一杯にひろがって、口から、足のつめ、からだにはえている小さな一本の毛までがハッキリとわかって、
妙な比喩ひゆですが、まるでいのししのように恐ろしい大きさに見えるのです。
それがドス黒い血の海の中で(僅か一滴の血潮がそんなに見えるのです)背中半分をぺちゃんこにつぶされて、手足で空をつかんで、くちばしをできるだけ伸ばし、断末魔の物凄い形相をしています。
何かその口から恐ろしい悲鳴が聞こえているようにすら感じられるのであります。
(江戸川乱歩『鏡地獄』・青空文庫より引用・改行は引用者による)

 上の引用文は、これで一段落なのですが、最初のセンテンスがとても長いですね。ここで切っても書けるだろうと思われる箇所で改行してみました。

 敬体では、センテンスを長くすることで語尾の単調さを避けることができるという好例です。

 とはいえ、長いセンテンスを読みやすい形で書くことは難しいです。こういう例を見て、その技を盗むのがいちばん手っ取り早い方法だと思います。

 乱歩は「それ」「そう」のように前を受ける言葉をうまく使っていますね。上の谷崎の文章でも、そうです。私もよく真似ますが、やり過ぎの感があります。

 どんな文体であれ、要は読者が不自然に感じないように書くことなのでしょうが、それは簡単ではなさそうです。精進するしかないという思いを強くしました。


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