【レトリック詞集】人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化
今回は、「【小話集】似ている、そっくり、同じ」の続編です。
【レトリック詞1】賞賛、嫉妬、恐怖
人には、ヒト以外の生き物のすることで、笑って済ませることと笑って済まされないことがある。人が笑うのはプライドがあるせい。
人には、機械のすることで、許せることと許せないことがある。人が許さないのはプライドがあるせい。
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AIに対し、人はきわめて人間的に反応する。ほほ笑む、嫉妬する、怒る、差別する。相手が同等あるいはそれ以上だと思っているからきわめて人間的に反応する。つまり破格の優遇。
チンパンジーやゴリラが絵を描けば賞賛。手話をすれば激賞、あるいは隔離する。言葉を理解すれば絶賛、あるいは隔離する。言葉を話せば沈黙、文章を書けば、即隔離する。
*
ヒト以外の動物があっぱれな行動をした場合には、見せ物にする、大事件として報道する。極秘事項や国家秘密として隠匿する。
ブラックボックス。何が出てくるか分からない不気味。いつか殖えるのではないかという最大の恐怖。
独立や自治は認めない。権利は言うまでもなく。
*
絵を描くゾウ、絵を描くゴリラ、絵を描くチンパンジー。人の言葉を聞いてわかるらしい犬、文字の違いがわかるように見える犬。人の言葉を話す鳥、人の言葉がわかるように見える鳥。
人の言葉を話し、作文し、学習する機械。それ以上は許せない。許すわけにはいかない。増えてもいいが、殖えてはならない。育ってもいいが、育てはならない。
【レトリック詞2】それない、ぶれない、あやまらない
ひょっとすると、人は「それない、ぶれない、あやまらない」ものの、なすがまま、されるがままを望んでいるのかもしれません。
もしそうであれば、機械がどんどん人間っぽくなる一方で、人間がだんだん機械っぽくなるというギャグ的な事態をまねく気がします(そして、いつか逆転するとか……)。
もう、そうなりかけていませんか。
ただし、そこまで言ってしまうと身も蓋もなくなるので、もう少し考えてみます。
*
「それる、ぶれる、あやまる」自分を、人は持てあますどころか、嫌悪しているのかもしれません。
「それない、ぶれない、あやまらない」ものに、人は導かれたいし、身をゆだねたいし、支配されたいのかもしれません。
「それない、ぶれない、あやまらない」ものに、人はなりたいのかもしれません。
究極の「それない、ぶれない、あやまらない」を、目指しているのかもしれません。
*
あやまってもあやまらない。
誤っても謝らない。
謝っても誤らない。
あやまるように教えればあやまる。
謝るように教えれば謝る。
誤るように教えれば誤る。
ようするに、人の「ように」振るまうよう教えれば、人の「ように」振るまう。
※杓子定規は「同じ」かどうかの世界にいるため、自分が人とは同じでないと判断しているので、「同じ」ではなく、「ように」(「もどき」および「そっくり」に)しか振るまえない。ただし、人から見ればの話。
これが杓子定規の定義。
*
人間の「杓子定規」化、「杓子定規」の人間化。
人間の「同じ」化、「同じ」の人間化。
人間の「同一」化、「同一」の人間化。
人間の「そっくり」化、「そっくり」の人間化。
人間の「もどき」化、「もどき」の人間化。
人間の「複製」化、「複製」の人間化。
人間の「機械」化、「機械」の人間化。
人間の「にせもの」化、「にせもの」の人間化。
【レトリック詞3】自分の作ったものを真似る
人は思う。自分の思いに似せて作る。
発明、創作、芸術、文学、科学技術。
*
人は自然のものに自分を見る、人を見る、声をかける、名づける、話しかける、人として扱う、下僕や奴隷にする、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
人は自分に似せたものを作る、声をかける、名づける、話しかける、人として扱う、下僕や奴隷にする、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
人が自分の作ったものをまねる、自分の作ったものに似る、恋する、愛する、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
なる、なってしまう。なって了う。なって終う。
おしまい。
*
人の作ったものが、人をうらやむ、人を憎む、人に恋する、人を愛す、自分を人だと思う、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
そんな物語を人は作る。被害妄想、うぬぼれ、自意識過剰。
*
人が自分に似せて作ったものが、人をうらやむ、人を憎む、人に恋する、人を愛する、自分を人だと思う、憧れる、なろうとする、なりすます、なる。
そんな物語。ブーメラン、復讐、鏡、鏡像、分身、複製、そっくり。
【レトリック詞4】現実のギャグ化、ギャグの現実化
人間の人形(ひとがた)化、人形(ひとがた)の人間化
人間の物化、物の人間化
擬人、擬物、擬神
偽人、偽物、偽神
人間の道具化、道具の人間化
人間の機械化、機械の人間化
人間のパーツ化、パーツの人間化
人間の部品化、部品の人間化
人間の玩具化、玩具の人間化
人間の兵器化、兵器の人間化
人間のアレ化、アレの人間化
人間のフィクション化、フィクションの人間化
人間の作品化、作品の人間化
人間の映像化、映像の人間化
人間の作物化、作物の人間化
人間の産物化、産物の人間化
人間の家畜化、家畜の人間化
人間の製品化、製品の人間化
人間の商品化、商品の人間化
人間のアイテム化、アイテムの人間化
人間のグッズ化、グッズの人間化
人間のイベント化、イベントの人間化
人間の祭典化、祭典の人間化
人間の神化、神の人間化
人間の動物化、動物の人間化
人間の神話化、神話の人間化
人間の仮想現実化、仮想現実の人間化
人間のヒト化
ヒトの人間化
*
道具、玩具、呪術、魔術、魔法、機械、人工頭脳、人工知能、仮想現実、仮想幻術。
*
絵、絵に描いたように美しい、人形(にんぎょう・ひとかた)、人形のように綺麗な肌、人形のように整った体型、玩具、愛玩動物・家畜(品種改良)、映像、二次元、写真のように綺麗、登場人物のように○○、キャラクターのように○○。
人工的な美、自然にはない美しさ、不自然な美しさ
まことしやかなしなやかさ
写真や映画やデジタル画像を模倣する作られた演出された現実
作られたものは整然として美しい、シンプルに美しい、明晰に美しい。
修正、編集、改良、交配、デザイン・設計、外科手術、整形手術。
「同じ」かどうかは人には見えない。
人は見えないものに魂を売りわたし、見えるものが世界に埋没していく。
見るために見えないものを必要とする生き物は、おそらく自然から逸脱してしまったヒトだけ。
*
サイボーグ、不老長寿、美容整形、容姿端麗、皮膚が異常になめらか、陶器のようにすべすべの肌、染み一つない肌、しなやかな動き、理想的なプロポーション、健康。
神話、擬人、伝説、伝承、口承、物語、文字、写本、印刷、フォトコピー。
落書き、壁画、描写、写生、模造、複製。
小説やテレビドラマや映画のような筋書きの日常、会話、人生。
*
人間の「杓子定規」化、「杓子定規」の人間化。
人間の「同じ」化、「同じ」の人間化。
人間の「同一」化、「同一」に人間化。
人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化。
人間の「人間そっくり」化、「人間そっくり」の人間化。
人間の「複製人間」化、「複製人間」の人間化。
人間の「機械人間」化、「機械人間」の人間化。
人間の「にせもの人間」化、「にせもの人間」の人間化。
そうなりつつありませんか?
現実のギャグ化、ギャグの現実化。
【レトリック詞5】不死は究極の反自然
自然を作る、人工・人造の自然。
不死は究極の不自然(これは反自然というべきかもしれません)であり、究極の人工(人工には必ず目的があります)であり、究極の「それない、ぶれない、あやまらない」(これは見えません、永遠に目にすることはできないでしょう、だから彼岸であり悲願なのです)ではないでしょうか。
究極ですから、不死は、たぶん人のオブセッションになっています。人が言葉を相手にしているからだと思います。言葉は人を不死に誘うからです(不死という夢に誘うのです)。とくに不自然の権化である文字です。だから、人は文字から離れられないのです。
*
人間の非人間化、マスゲーム、軍隊、制服、合唱、規則、行進、一糸乱れぬ。
法律、戒律、一本化、画一化、支配、階級、階層、代議制、党支配、政党政治。
*
私は文字になりたい、小説の中で生きていたい、二次元で生きたい、映画になりたい、キャラクターになりたい、登場人物になりたい。
現実逃避、ボバリズム、ボヴァリー夫人、ドン・キホーテ。現実と虚構と幻想を混同する。
人形になりたい、人形のような肌がほしい。
*
私は論理になりたい、哲学になりたい、私は数学になりたい。
私は詩になりたい、私は言葉になりたい、私は物語になりたい、私は小説になりたい。
私は音楽になりたい、私はあの楽曲になりたい、私は音符になりたい、私は音になりたい、私は声になりたい、私は声だけになりたい。
私はゲームになりたい、私は世界になりたい、私は地球になりたい、私は山になりたい、私は海になりたい、私は川になりたい。
私は犬になりたい、私は猫になりたい、私は金魚になりたい
私はカラスになりたい、私は白鳥になりたい、私はゴキブリになりたい、私はウィルスになりたい。
現実の言葉化、言葉の現実化。
現実の文字化、文字の現実化。
現実の物語化、物語の現実化。
現実の神話化、神話の現実化。
現実のレトリック化、レトリックの現実化。
現実のギャグ化、ギャグの現実化。
「妄想ですか?」
「もうそうです」
【レトリック詞6】名前と顔のあるもの、名前のないもの
人は、名づけたものにしかなりたいと思わないのではないでしょうか。呼びかけ、話しかけることは、人にとってとっても大切です。
名前と顔のないものには人は話しかけられません。さらに大切なことは、何かに話しかけたとき、人はそのものになっています。正確にいえば、なりきっています。
そのなりきったもの、なりすましたものには、名前と顔があります。
言葉はなりきり、なりすますための道具なのです。
*
私はあなたになりたい、私はあの人になりたい、私はこどもになりたい、私はこどもに戻りたい、私は二十年前の私になりたい、私は別人になりたい、私は私になりたい、私は「本当の私」になりたい。
もはや名前のないものになりたいと思うようになる人。「自分」には名前はないはずです。「自分」は世界とのかかわりあいのない場にしかいないからです。
かかわりのない場では名は意味を成しません。
*
自分と「自分」が離れていく。
分身、変身、変心、分心。
分れた自分。別れた自分。取り戻せない自分。たどり着けない自分。
自分とは気配。
*
「見える」だけがある世界。見えれば、それでいい。自分は要らない。
現実のギャグ化、ギャグの現実化。
現実のディストピア化、ディストピアの現実化。
【小話】私たちは同じではなく似ている
※レトリック詞だけの記事にするつもりでしたが、あまりにもディストピア的な展開になりましたので、小話を加えて終わります。長いですが、お付き合いいただければうれしいです。
*そっくりなところがそっくり
スマホを使っている人はスマホに似てくる。
人は自分に作るものに似てくる。人は自分が使っているものに似てくる。そっくりに似てくる。シンクロにシンクロする。同期に同期する。
*
人の顔や姿がスマホに似てくるという意味ではありません。ただのレトリックです。
大量生産されてどれも似ていたり同じに見えるスマホ。お店や工場でずらりと並んでいたスマホ。どれもそっくり。
そのスマホを覗きこむ、目を細めたり、目を見開いたり、ときには笑みを浮かべる、顔をしかめることもある、やや口を開けている人もいる。
指で画面をなぞる、スライドするのがもどかしいのか眉を寄せたり、舌打ちする人もいる。
やや前屈みに歩きながらスマホの画面に見入る、ときどき歩を緩めたり、立ち止る。ときに人や物にぶつかる。たまに穴や溝に落ちる。まれに命を落とす人もいる。
どんな場合であれ、スマホは握ったままでいる。手放すことができない。
みんな、似たような仕草をしている。その仕草を繰りかえしている。真似し合っているように。そっくりなのです。
*
そっくりなところがそっくりなのです。そっくりな点がそっくりにそっくりなのです。これもレトリックですけど。
スマホという大量生産された製品のシンクロ振りに、それを使う人の身振りのシンクロが重なるという意味です。つまり、シンクロにシンクロする。
スマホを使っている人はスマホに似てくるというのは、それくらいの意味です。
スマホに限りません。車がそうです。自転車もそうです。三輪車もそうかもしれません。
ボールペン、消しゴム、ノート、お箸、絆創膏、腕時計、下着、靴下、眼鏡、シャワー、便器、ベッド、乳母車、棺。どれも大量生産されたそっくりさんたちですが、それを使うとき、人はそれぞれそっくりな仕草や表情をします。
ひとりひとりの顔も個性も違いますが、やることがそっくりなのです。
ある意味で、製品に合わせているのでしょう。人に便利なように、人の都合に合わせて、そして何よりも人の体や体の一部やその動きに合わせて、商品は作られているからでしょう。
人の体だけでなく、人の内にも合わせて作られているような気がします。内というのは、脳だったり、意識だったり、行動のパターンとか型だったり、ひょっとすると記憶もそうかもしれません。
人が作ったものや、人が使っているものは、人に似ている気がしてなりません。
*愛着と興味がないものには残酷になれる
私たちにはニワトリがそっくりに見えます。これは特別な思い入れや愛着がないからでしょう。思い入れや愛着がないものはそっくりに見えます。
ニワトリから見たら、ヒトはそっくりではないでしょうか。顔や姿ばかりでなく、仕草と表情、やることなすこと、そっくりではないでしょうか。
興味がないからです。
愛着や興味がないものには冷淡になれます。残酷にもなれるでしょう。もちろん、愛着と興味をいだけば、ペットにも家族にもなるでしょう。
※この部分は、ある特定の職業を批判するつもりで書いたわけではありません。どうかご理解を願います。
*疑似物、疑似世界、疑似体験
私たちは世界や森羅万象と直接的に触れあい、対することができません。知覚や言葉という代理、そして似たものを通して触れるわけです。
私には言葉、とくに文字と世界が似ているとは思えないのですが、似たものとして私たちは使っています。不思議です。
言葉という疑似物を用いた疑似世界とか疑似体験という言い方が適切かもしれません。「言葉という偽物を用いた隔靴掻痒の遠隔操作」という言い回しよりは的確でしょう。
げんに私は言葉という疑似物をやり取りして人と交流し、言葉からなる文章を読んで疑似体験を楽しんでいます。これは学習の成果であり、想像力のおかげだと理解しています。
生まれたときから既に自分の外にあった言葉を真似て学びながら、同時に想像力を養った結果という意味です。
あっさりと書きましたが不思議でなりません。
*
私たちひとりひとりはそれぞれの疑似世界を持ち、疑似体験をしている。こう考えてみます。疑似(擬似)の「疑(擬)」が余分ですから、「似」にこだわりましょう。
私たちひとりひとりがそれぞれの「似た世界」と「似た体験」をしている。同じではない。同一はありえないでしょう。似ているのです。似ているから通じ合えます。たぶん、ですけど。
*「似たもの」としての世界
私たちは「似たもの」としての世界に生きている「似た者同士」ではないでしょうか。
あなたのいだく「似たもの」と私のいだく「似たもの」と、人の集まりである社会や集団がいだく(決めたということです)「似たもの」は似ているけど、異なるはずです。ズレがあるのです。
それが個性ではないでしょうか。それがユニークさであり、掛け替えのなさではないでしょうか。
*
話し言葉、書き言葉つまり文字、物語、フィクション、行動様式、表情、身振り、仕草、旋律、コード――。
こうしたものは各人、家族、集団、共同体、社会、国家、地域、文化によって異なりますが、似ています。だから伝達や伝承や翻訳や言い換えや解釈ができるのでしょう。
伝達や伝承や翻訳や言い換えや解釈は「うつす・うつる」です。移す、写す、映す、撮す、遷す。「うつす」には必ず何らかの誤差、ノイズ、エラー、変異がともなうそうです。
くり返すとずれるのです。反復すると差違が生じるとも言えます。反復すると差異が生じるとも言えます。
複製やコピーは同一を再生したり再現することではないようです。似せて作られるものは、当然のことながら、似ているもの、つまり「近似」なのです。
だから「疑似(擬似)」ともいうのでしょうか。百パーセントとか完全という言い方を避けているわけですね。
*個性とユニークさ
そっくりに見えても、似たように見えても、似たり寄ったりであっても、そこには「異なる」個性があるのだと私は理解しています。
逆に「同じ」は不気味です。
「似ている」は印象ですから検証はできません。「同じ」や「同一」はヒトの知覚では確認できず、精度の高い機器や機械を用いてなら検証できるでしょう。
日常生活では「同じ」「同一」はありえないし、出会えないわけです。抽象であるとも言えます。その嘘くささが不気味さに通じるのかもしれません。個人的な思いです。
*
そっくりがそっくりしている、シンクロがシンクロしている、同期が同期している世界。百年前、いや五十年前の人なら、目まいを覚えるのではないでしょうか。
そんな目まいを覚える世界に徐々に入っていった私たち、そして生まれたときには既にそうであった世代の人たちは、もはや目まいを感じなくなっています。
逆に、太古の人たちがこの世界を見たらなんて想像すると、こちらが目まいに誘われますが、そうした想像力を大切にしたいと思っています。
当り前に見えるものは当り前ではないし、必然でも自然でもないという意味です。
とはいえ、私はこの「似たものとしての世界」つまり疑似世界に生まれ、生きていて十分に幸せです。満足もしています。
*似ているから愛着をいだける
疑似物である言葉を持ち、さらには文字を持ってしまった人類は、擬似世界に生き、疑似体験を重ねてきたのでしょう。
直接的に世界に触れているわけではない。これは確かでしょう。
仮想現実だなんて、何を今更という気もしますが、「似ている」と「そっくり」の精度と有効性は急速に高まりつつあるようです。
(私に言わせると、知覚機能と言語活動を介してとらえているこの現実こそが、既に「似たもの」つまり疑似物であり仮想物からなりたっているきわめて精巧でよくできた仮想現実なのです。)
それでも私たちひとりひとりのいだいている「似たもの」が異なるという事実は変わらない気がします。
つまり、「似ている」からこそ違いが生じ、個性があると言えます。「似ている」が個性を生むのです。
一方で、「同じ」は個性を消します。無視するだけでなく消すのです。
*
似ているものに、私たちは愛着を覚え、愛着をいだくことができます。
擬人化というのは、森羅万象に自分たち人間を見てしまうことです。
世界や森羅万象は私たちにとって直接触れあうことができない「何か」であるわけですが、名前を付け、自分たちと似た部分を見ることで親しいものに見えてきます。
自分たちと似ていると思いこみ、手なずけ飼いならしているのかもしれません。世界や森羅万象なんてチョロいとも思っているにちがいありません。さもなければ、科学技術はこんなに発展していないでしょう。
擬人化をともなう想像によって、ただの物や景色や形が、人形や顔や絵に変わります。空の雲を思いうかべると分かりやすいと思います。
そうした想像力の結果が、映画であったり映像であったり、芸術であったり、おそらく音楽であったりするのでしょう。想像は創造であるという、例の駄洒落です。
*
生き物も人に似ていると感じることで愛着や愛の対象になります。物もそうです。自然にある物たち、そして人が作った物たち。
こう考えると、「似ている」が素晴らしい感覚に思えてきます。
一方で、「同じ」はどうでしょう。
「私たちは同じなんだ」「同じ人間なんだ」「地球に住む同じ生き物なのだ」「同じ〇〇国民だから」「同じ〇年〇組なのですから」「同じ家族(会社、町内、病気、趣味、ファン、宗教、性、世代、出身地)なんだからさ」……
ちょっと待ってください。
「同じ」も素晴らしく聞こえ、美しくさえ響きますが、どこか嘘くさいのはやはり日常生活や体感から懸け離れている抽象だからではないでしょうか。妙にほのぼのとして美辞麗句っぽいのです。
さらに、「同じだから」という上の言葉に続けて言われがちなフレーズを想像してみてください。何らかの思惑や魂胆のあるフレーズが頭に浮かびませんか?
「私たちは同じ〇〇なんだから、△△するべきだ(△△して当然でしょう)」――こういう流れになります。
こうしたスローガンやプロパガンダが危険でもあるのは、歴史が教えてくれます。
私たちは同じではなく似ているのです。ひとりひとりが似ていながら違っているのです。
*
「同じ」という言葉が、特定の考えを説得するさいの方便や切り札として使われる場合がいかに多いことか。
そう簡単に「同じ」だと括っていいものでしょうか。
魂胆があるからです。言葉の錯覚を利用した心理操作かもしれません。レトリックのことです。
*
これは個人的な思いなのですが、同じ姿や顔をしたものがずらりと並んでいると生きているという感じがしません。平気で壊せる気がします。
生きていると感じないのは、それらに人を感じないからかもしれません。
*
私たちは同じではなく似ているから、ひとりひとりが違うのです。
私たちを文字や数字に置き換えれば、同じどころか同一になるでしょう。
私たちは文字でも数字でもありません。私はそういう抽象には耐えられません。
ためらいもなく、人を文字や数字に置き換えて処理する、あるいは処分する人に強い嫌悪感を覚えます。その鈍感さと残酷さにです。そういう人は権力を持ってはならない、いや私たちが権力を委ねてはならないと思います。
あくまでも個人的な思いです。これだけ抽象にこだわるのは、性格や気質の問題かもしれません。
*「同じ」は見えない
「同じ」かどうかは見えません。見えないから、見えるものに置き換える必要があります。それが複製である文字でしょう。
文字は人を錯覚させます。快い錯覚です。一度覚えたらぜったいに手放したくない錯覚でしょう。
自分が隔靴掻痒の遠隔操作をしているのではなく、世界と無媒介的(直接的)に触れあっている、と錯覚する。
この錯覚を維持するためには文字が文字だと意識してはなりません。
そして、自分は「似ている」かどうかを基本とする印象の世界ではなく、「同じ」かどうかの世界に生きている、と錯覚する。
この錯覚を維持するためには文字が文字だと意識してはなりません。
*
発したとたんに消えていく、音声や表情や身振りと異なり、文字は消さないかぎり残ります。
見えるから、文字はみんなと共有できます。
複製だからいつでもどこでも「同じ」はずです。物ですから持ち運びできるし、写せる、つまり引用も楽にできます。別の言語や文字にうつす、つまり翻訳もできます。
しかも消さないと消えませんから(これは当たり前ですけどすごいことです)拡散と保存と継承に適しています。
現にありとあらゆるものが最終的に文字にされています。
経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。
*
学校では、「同じ」を基本とする文字の読み書きを学んで、「同じ」かどうかを学びます。
みんなでまなんでみんなとつながる。
まなぶ・学ぶ・まねぶ・まねる・ならう・倣う・習う・なれる・慣れる・馴れる・ならす・慣らす・均す・平す・ならぶ・並ぶ・列ぶ・双ぶ。
みんなとおなじにならない、そっくりにならないことが大切だと思います。
*初めて見る「似ている」の世界
ずらりとそっくりに並んだものたちに掛け替えのなさを感じて、愛着を覚えるためには「似ている」が必要だという気がします。
この「似ている」の根っこには「人に似ている」があるように感じられます。
私は子を持ったことも、育てた経験もないのですが、近所で仲良くしている家族の赤ちゃんをよく目にします。かわいいし、愛おしささえ覚えます。
赤ちゃんを見るたびに、私はその目の動きと表情を観察します。残念ながら声は聞こえません。難聴が進行して高い音域が聞こえないのです。
*
生まれたての赤ちゃんが目にした世界には「似ている」が立ち現われているのではないでしょうか。それも「人に似ている」です。
その「似ている」に向かってほほ笑む、あるいは泣く。その「似ている」は必ずしも人でなくてもいい気がします。ガラガラやベビーメリーがそうですね。
物にでも赤ちゃんはほほ笑みかけ、泣いて見せる。それが赤ちゃんの想像力かもしれません。また、笑みと声が「届き」「達する」とも限りませんから、これは占いであり賭けだとも言えます。
さらに言うなら、赤ちゃんにとって、物と人のさかいはないのかもしれません。
物と人のさかいのない赤ちゃんが向きあっているのは、たぶん「顔」なのだと思います(この「顔」とは「意味の萌芽」の比喩と考えていただいてかまいません)。
「顔」こそが、人にとっての最初の言葉であり文字だという気がします。
これも想像するしかありませんね。
*
「世界という本物」から永遠に切り離され、そこにたどり着くことができず、「世界という本物に似たもの」に囲まれて生きている以上、人は想像する以外に世界と触れあう手段はなさそうです。
想像する、おもう、想う。
「いま」「ここ」にいて「かなた・あなた」を想う。これで十分ではないでしょうか。
うつせみの あなたにいだく 夢の顔
*
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
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