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日記、日記体、小説(「物に立たれて」を読む・04)

「「物に立たれて」(「物に立たれて」を読む・01)」
「月、日(「物に立たれて」を読む・02)」
「日、月、明(「物に立たれて」を読む・03)」

 古井由吉の『仮往生伝試文』にある「物に立たれて」という章を少しずつ読んでいきます。以下は古井由吉の作品の感想文などを集めたマガジンです。

     *

 引用にさいしては、古井由吉作の『仮往生伝試文』(講談社文芸文庫)を使用します。

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 まず、前回の記事をまとめます。

 月、日 ⇒ 日、月 ⇒ 明 ⇒ 明・赤 暗・白
 古井由吉の文章では、「明ける」という表記が目につきます。「開ける」と「空ける」という書き方が標準的な文脈でも「明ける」と書かれることが多いのです。
「なぜ」と問うことは簡単ですが、その言葉を飲みこみ、古井の書いた文字の連なりに目を向けることのほうが、ずっと大切だと私は思います。
 私の中では、「明ける」は待つ姿と重なります。夜の静けさの中で耳を澄ませ文字をつづっていく。そして明けるのを待つのです。
 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、さとい耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。

 では、今回の記事を始めます。


*引用


 物に立たれて

 十二月二日、水曜日、晴れ。
 深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。いま、そこに立ったのはないことは、気がついた時に一目でわかる、という。その辺の光線のぐあいや運転するほうの目のせいばかりでなく、服装や体格にもあまり関係なく、とにかく姿の見えにくい、そんな客はあるものだ、と。
 それでも早目に気がつけば車を寄せる、ぎりぎりになっても寄せられないことはないのだが、なんだか運転の呼吸が狂わされそうで、悪いけど通り過ぎてしまうこともある、と。
(古井由吉「物に立たれて」(『仮往生伝試文』・講談社文芸文庫所収)・p.259)

*日記、日記体、エッセイ、小説


・「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、ひょんな場所ところだろうと、商売柄、遠くから目に入るものだが、たまに、すぐ近くに来るまでその人影のまるで見えない客がある、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」:

 日記体の文章の第一文が「深夜の道路脇に車を待って」で始まり、「とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」で終わっています。

 出だしに伝聞が来ているということです。この文章は、日記の振りをしたフィクションであることをはっきりさせておきましょう。日記ではなく、日記に似せている、日記に擬しているわけです。

 今述べたことを頭に入れて、この一文をもう一度読んでみると、日記っぽくないなあと私は感じます。

 第二文は「、という。」、第三文は「、と。」で終わって、段落が変わっています。

 感想は人それぞれでしょうが、私には誰かの日記としては読めません。強いて言うと、エッセイの文章に似ています。

 仮に「、とタクシーの運転手が話したのを聞いたことがある。」ではなく、「、とタクシーの運転手が話したのを聞いた。」なら、その日の出来事に取れて、日記っぽいですが、この書き方は以前の話を回想している口調なのです。

 だから、日記として読もうとすると違和感を覚えるのです。エッセイに似ているというのは、詳しく言うと、そういう意味です。

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 日記とは、いわば「自分の、自分による、自分のための」日誌です。一方のエッセイは他人に読ませるものです。とはいえ、人それぞれです。エッセイ風の日記を書いていけない理由もルールもありません。

 私なら、こういう日記は書かないだろうなあ、私の知り合いでこういう日記を書く人は思いあたらないなあ、程度の話だと言えます。

 日記に似せた文章ですから、引用文には「私」が出てきません。逆に出てくると、日記っぽくなくなるからでしょう。

 とはいえ、人それぞれです。日記で「私・わたし・わたくし」「あたし」「ぼく・僕」「俺・おれ・オレ」……とのっけから書く人がいても驚くべきことではありません。

「あなた、そんな日記の書き方はないでしょう」なんて目くじらを立てる話でもないでしょう。そもそも人に見せるものではないのですから。

 私はときどき三人称の日記を書くことがあります。これは楽しいです。「他人事」として書けるので、苦しさや痛みが薄れます。

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 引用文を読みかえすと、エッセイならなかなか面白い始まり方だなあ、と私は感心します。古井由吉が書いている文章だからという思い込みがあるからに決まっています。

 そんなふうに私は古井の小説を読んでいます。

 日記、日記体、エッセイ、小説――

 ここまでにこれだけの言葉をつかいましたが、今読んでいるのは小説なのです。これは事実です。

 小説ですから、私は言葉の綾模様を眺めながら、読んでいこうと思います。私にとって、小説は視覚芸術だからです。

 もしこれが日記でノンフィクションであれば、私はそうした読み方はしません。日記の字面をじろじろ見るとか眺めるなんて、だいいち書いた方に失礼ですし、気味が悪いと思われるに決まっています。

 小説を眺めるのも十分に気味が悪いよ、ですか? 返す言葉がありません。

*「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」


 古井由吉の小説だという先入観を持って読むと、この第一文の出だしは古井っぽいなあと私は思ってしまいます。自己暗示にかかっているからかもしれません。

 私は暗示に弱いのです。他人の暗示よりも自分の暗示にころりと参る性格をしています。

     *

 ところで、「道路端」は何と読むのでしょう? 「どうろはし」と私なら読みます。でも、「どうろばた」とか「みちはし」なんて読み方があっても不思議はありません。「みちばた」なら「道端」(この言葉はp.260で実際につかれています)と書きそうな気もします。

 "道路端"というふうにクオーテーション・マークでくくって、一致検索をして、ヒットしたサイトをみると、お役所でつかっている表記らしいという印象を受けますが、その読み方まではわかりませんでした。

 どう読むかは、ここではそれほど大切ではないので、読み方についてはこれ以上こだわりません。

 そう思いつつ、先を読み進むと「ひょんな場所ところだろうと、」とあって苦笑してしまいました。「いやだ、古井先生、こんな「場所ところ」にルビを振っておきながら、「道路端」に振ってくれないなんて……」とつぶやきそうになります。

*端


 話が進まなくて、ごめんなさい。私はこんなふうに文字を眺めているのが好きなので、なかなか読み進めないのです。

 今回は「端」という言葉と文字に話を絞ります。

 道路脇でも、路肩でもなく、読み方が不明な「道路端」という言葉と文字が選ばれてつかわれているのです。私が気になるのは「端」です。

 転がしてみましょう。

 端・はし・はた・は・はな・タン
 はし・はしっこ・きわ・へり・さかい・ふち・ふちっこ

     *

 私の大好きな一連の言葉が浮んできます。

 共通するのは、出会いの場所だということです。ある場所や空間の、ど真ん中や奥に控えていては、よその人、そと(外)の人とは出会えません。

「はし」にいてこそ他者との出会いがあるのです。

 はしははしとはしにかかるはし

 いきなり、ごめんなさい。早口言葉ではありません。私はこういうふうに言葉をいじるのが好きなので。「言葉のあやとり(言葉のあやとり)」と呼んでいます。

 言葉を転がしたり、掛けたりするのが趣味なのです。病的に好きだという自覚があります。

 昨日投稿した「ジャンルを壊す、ジャンルを崩す(言葉とイメージ・07)」の最後に書いたことを補足説明すると、私にとって note はいわば寄席であり、私はその寄席にいるピン芸人みたいなものだと、このところよく思います。「言葉のあやとり」が芸風というか、一芸なのです。

     *

 はしははしとはしにかかるはし

 端は端と端に架かる橋
 端は橋
 端=橋

 人と人をつなぐ橋は、端と端があってはじめて架かるのです。

     *

『仮往生伝試文』では各章が、説話をめぐっての文章と、日記体の文章に分かれています。各章はもともと連作という形で書かれたものなので、独立した小説としても読めます。

「端」のある「道路端」は、小説の冒頭に置くのにふさわしい言葉ではないでしょうか。

*まとめ


「物に立たれた」は日記体の文章で始まっている小説です。日記体とは小説を真似た文章であり、あくまでも小説として読むべきだと私は思います。
 この日記体の出だしがタクシー運転手から聞いた話の引用、つまり伝聞であることは、しっかりつかんでおかなければなりません。古井由吉の小説では伝聞が多用されるので、慣れないと読みにくく感じたり、混乱する原因になりかねないからです。
「深夜の道路端に車を待って立つ客の姿は、」というフレーズには、古井由吉らしい言葉遣いとイメージが詰まっています。今回は「道路端」の「端」にこだわってみました。
 はしははしとはしにかかるはし
 端は端と端に架かる橋
 人と人をつなぐ橋は、端と端があってはじめて架かるのです。端は橋だ、という意味です。「道路端」という「端」での出会いが小説を始動させています。「端(はな)から調子がいい」という場合の「端・はな」、つまり「始まり」であることに気づきます。

 こんなふうに「言葉の綾模様」にこだわりながら、読み進めていくつもりでいます。この先もお付き合いくだされば嬉しいです。

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