プライベートな場所、プライベートな部分
はいる、入る、這入る、はいいる、這い入る。
はう、這う、延う、匍う。はらばう、腹這う。匍匐(ほふく)。
このように書き分けると、ぞくぞくするような語感の言葉だと分かります。今回は「はいる・入る」という行為について書いてみます。私にとって、とても気になる言葉でありイメージでもあるのです。
他人の家に入る
他人の家に入るとわくわくするとか、どきどきすることがありませんか? よその家に足を踏み入れた瞬間に、その家独特の匂いがしたり、自分の住まいとは違う湿度を感じたり、何か見てはいけないものと出会う予感がして、どぎまぎすることがないでしょうか。
私の場合には、思わず身構えている自分がいます。緊張するのです。なぜか、後ろめたい気もします。
店や公共の施設に入るのとは違った気持ちがするとすれば、それは私たちの遠い祖先が感じていたであろう、他人のテリトリーを侵犯する際のスリルに似た感覚が呼び覚まされ、刺激されるからではないでしょうか。こうなるとスリルというよりも、恐れや警戒心と言うほうが適切かもしれません。
もちろん、人それぞれですから、いまお話ししているのはあくまでも私個人の意見です。
恐れや警戒心というのは、まず皮膚的な感覚として生じる気がします。気配というやつです。
分ける、分かれることで分かる
さきほど「侵犯」という言葉を使いましたが、侵も犯も「おかす」という大和言葉に当てた漢字です。「おかす」は「侵す、犯す、冒す」と書き分けることができます。
大陸から渡ってきた、あるいは持ってきた中国語の文字を使うことで、「おかす」という大和言葉が分かる、つまりその意味が分かれるというのは、興味深い現象ですね。
分ける、そして分かれることで分かる。狐につままれたような気がします。不思議です。
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おかす、侵す、犯す、冒す。
はいる、入る、這入る、はいいる、這い入る。
大和言葉(和語)は気配として身体に入って来ます。染み入るのです。
侵犯、侵入、侵略。
漢語は頭で分かる気がします。知的で大げさなのです。
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おかす、侵す、犯す、冒す。
漢字は和語を分けます。分けて分かれて分かる。「分ける」と「分かれる」と「分かる」までのあいだに時間がかかるのです。
すっと入ってくるものが、文字を変えることで押し入ってくる気もします。ひょっとすると侵しているのかもしれません。
話をもどします。
他人の家に「入る」
ここでは文学作品を例に取って、他人の家に「入る」行為がどんなことなのかを考えてみましょう。
他人の家に入る場面のある小説なんて、それこそ掃いて捨てるほどあると思われます。今回は他人の家に入ってわくわくしたり、ぞくぞくしたりする場面が出てくる作品に的を絞って考えてみます。
そんな作品はあるのかと疑問に思われる方は多いのではないでしょうか。一つ例を挙げると、レイモンド・カーヴァーの『隣人』(村上春樹訳)という掌編が、それに当たります。
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アパートかマンションに住んでいる夫婦の話――。廊下を隔てた隣人である別の夫婦が長期の旅行に出ることになり、その留守中にペットと室内の植木の世話を頼まれる。鍵を預かり数部屋から成る住まいに入って、言われた通りに猫に餌をやり植木に水をやる。
それだけならいいのですが、それだけでは済まないのです。妙な心理におちいります。魔が差したという感じなのです。おそらくふだんは自覚していなかった深層の心理が、旅行に出かけた隣人夫婦の住まいの管理を頼まれたことをきっかけに突如として出てくるのですけど、不気味で読んでいてわくわくします。
どこにでもいるような登場人物と、ありがちな設定を用いて人間の心理の不可解さに迫るという小説作りがカーヴァーはうまいと思います。
もよおす
何が妙なのかというと、隣人夫婦から留守番を頼まれたこの夫婦ときたら、やたらと性的な興奮を覚えるようになる、つまり、もよおすのです。
もよおす、催す。催眠という言葉を思いだしました。
もよおす――。お隣の夫婦の住まいでですよ。変といえば変、分かるような気がするといえば分かるような気がするのですが、いずれにせよ妙な話であることは変わりません。
こんな夫婦に留守宅を任せたくありませんよね。留守番を頼んだ隣人夫婦は、まさに知らぬが仏でしょう。いや、この掌編の劇的な結末からすると、知らないままには済みそうもないのですけど、ネタバレになるのでこれ以上立ち入ることができないのが残念です。
ネタバレにならないように気をつけながら、二人の奇妙な行動を追ってみましょう。
ある夫婦がある夫婦の家に入る
隣人のストーン夫妻が車で旅立つのを手を振って見送ったあと、妻のアイリーンは自分たちも休暇を取りたいものだと夫に漏らします。
この描写は、後の展開を知っていると象徴的な仕草に見えます。つまり、伏線とも取れるのです。
夕食を終えると夫のビルがストーン夫妻の住まいに入り、頼まれたとおりに猫に餌をやったのちに、バスルームに入る。そして鏡に映った自分の顔を見る。ここまではいいのですが、次に薬品戸棚からハリエット・ストーンに処方されている薬の瓶を見つけて、それを何とポケットにつっこむのです。
この神経は尋常ではないにもかかわらず、抑制された文体で淡々と描写されているために、あれよあれよと読んでしまうとすれば、カーヴァーの術中におちいったことになるでしょう。
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さらにビルは、居間で植木に水をやったその手で酒の入ったキャビネットを開け、奥にあるウィスキーを取り出して、瓶からふたくち飲みます。
ビルがストーン夫妻の部屋から出るところを引用してみます。
何気ない描写ですが、短編や掌編を書き続け、さらには何度も書き直したという職人のようなカーヴァーの作品を目前にしたときには、書かれている言葉を舐めて味わうようにして、ゆっくりと読み進めたいです。
「何か忘れものをしてきたような気がした。」というセンテンスが気になります。意味不明というか不可解なので、不気味でもあります。
プライベートな場(所)
他人の家でこういう行動をする心理をどうお思いになりますか?
誰も見ていないのだから、自分もやっちゃうかも、なんて感想をいだく人がいても驚きません。
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いまでこそ、お風呂とトイレの一緒になったバスルームは珍しくありませんが、たとえば両者が別個だった住まいで三十歳過ぎまで生活していた私にとっては、そうしたバスルームがあることは頭で分かっているにしても、感覚的にはやはりその二つは別物だという印象が強いです。
ここで、お風呂もトイレもプライベートな場であることに注目しましょう。
ところで、英語で「プライベートパーツ(private parts)」というと、男性では性器と臀部、女性では性器と臀部に加えて胸部を指すそうです。だから複数形なのですね。
日本で「プライベートパーツ」というと、これに口が加わるそうです。この四か所については、妊娠、出産、性愛、生命にかかわる部分という説明がなされることが多いみたいです。確かに性的虐待の実態を考えると、この四か所の選択は妥当だと思います。
家族・夫婦・パートナー同士
家族って何でしょう? 夫婦やパートナー同士の関係ってどんなものなのでしょう?
二人の人間が付き合う、そして結婚やそれに類似した形で結ばれる。その関係の基本的な部分ではトイレとお風呂の共有があり、身体的なまじわりがありますね。
恋とか愛とかいう抽象的な次元ではなく具体的な行為として、身体の触れ合い、たとえばプライベートパーツの触れ合いがあります。その中で性器の接触があるわけですが、性器は排泄器官でもあります。
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家族の中で赤の他人は夫婦だけ、また性愛関係が成立するのは夫婦間だけだといわれることがあります。
家族といっても、血縁関係のない成員がいる場合もあれば(たとえば養子縁組や再婚の結果です)、育児期にある子どもがいるといないとでは、子どもや子ども以外の成員のプラベートパーツの扱いや接触は異なるにちがいありません。
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プライベートパーツをさらけ出す場所が、お風呂やトイレというプライベートな場であることは注目すべき現象だと思います。
体を洗う場と体内に溜まったものを出す場で、性と排泄が関与するパーツや器官を露わにするわけです(当たり前のことなのでしょうが、こうして言葉にすると私なんかは、はっとします)。
夫婦やパートナー同士や家族とは、そうした場を共有する人間だといえるでしょう。
ほのめかしや匂わせの名人
話をカーヴァーの掌編に戻します。
廊下を隔てた隣人の留守番を任されたとはいえ、ビル・ミラーのしている行動は一線を越えつつあるのではないでしょうか?
用を足すわけでもないのにストーン夫妻の住まいのバスルームに入った時に、ビルのスイッチが入ったように考えられます。
そもそもスイッチが入る素地は十分にあったようです。素地とは、自分たちよりも経済的かつ社会的に成功しているストーン夫妻への憧れです。自分たちが取って代わりたい存在、つまり憧れと言ってもいいでしょう。
隣人夫婦に対して、入れ替わりたいという潜在的な願望があったともいえるかもしれません。
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ストーン夫妻の住まいに入り猫に餌を与え植木に水をやったビルが、自分の家に戻った時の描写に注目しましょう。
何気ない夫婦の行動のようですが、これは文字数の少ない掌編小説なのです。
しかも書き手は掌編や短編を書き慣れた巧者カーヴァーですから、普通の生活の普通の行為が淡々と描かれているというよりも、このごく短い作品の中で何らかの意味を持つ「選ばれた描写」であると考えられるのではないでしょうか。
そうなのです。カーヴァーは意外とエロいのです。
ほのめかしや匂わせの名人であると考えて読むと、この作品の面白さとエロさが堪能できると思います。自分のエロさに気づくという意味です。
エスカレートするふたり
翌日からのビルとアーリーンの行動が面白いです。
ビルはいつもより早く帰宅し、自宅に入る前「向かいの部屋の扉に目をやった」後に、妻をベッドに誘います。「彼はズボンのベルトを外した」という一文まであります。
中華料理の出前をとって夕食を済ませたビルはそそくさと向かいの家に行き、猫に餌をやる。そして「戸棚を全部開けて」中を隅から隅まで点検し、冷蔵庫を開け、中にあったチーズを齧り、林檎を食べながらベッドルームに行く。
「すごく大きく見えた」ベッドの脇にあるナイト・スタンドの引き出しを開け、そこにあった煙草の箱をポケットに入れる。呼び戻しに来たアーリーンから、もう一時間以上もいると言われるビル。
ビルが尿意あるいは便意と、性的な興奮とを同時に感じているのかどうかは明記されていませんが、性器と排泄器官とがほぼ一致した形で人間や多くの動物の身体に備わっていることからして、その両方の機能の間に連関があっても不自然ではないと思われます。
ミステリー、犯罪小説
かつて私はミステリーや犯罪小説というジャンルで小説を書こうとしたことがあり、その種の文献を図書館で漁っていた時期がありました。
小説だけでなく、法医学、刑法、警察組織、犯罪心理学、異常心理学、FBIの捜査官による手記という具合に広範囲にわたる資料に目を通し、勉強していたのです。
確か元警察官による実話集みたいなものに書かれていたのですが、犯罪現場に排泄物が残されているケースが多々あるのだそうです。
ビルの行動を読んでいて、それを思い出しました。似た記述がFBI捜査官の手記にもあった記憶があります。
排泄物が残されていると言っても、トイレにその形跡、つまり飛沫などが壁や床に付着しているといった程度から、殺人現場や窃盗が起きた部屋に排泄物や体液が堂々と残されているといったいささか猟奇的、あるいはおどろおどろしい実話までありました。
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緊張とかストレスによって尿意や便意を覚えることがありますが、それとも似ているのかなあ、なんて考えているのですけど、どうなのでしょう。
犯罪を犯すには体力も運動量も要るようですから、発汗をはじめさまざまな生理現象が起こっても不自然ではないし、だいいち相当なストレスがかかりますよね。
行為の途中で胃がきりきり痛む人もいるのではないかと想像します。お腹の緩い人やおしっこが近い人なら、もよおすのではないでしょうか。
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ちなみに、ミステリーを書こうという私の企ては挫折しました。
犯罪について勉強しているうちに精神的に参ってしまったのです。しばらくはミステリーは手に取らず、テレビのミステリードラマさえも見る気がしませんでした。
どうやら、私は感情移入が激しく同化しやすい性格みたいなのです。暗示にもかかりやすいです。
異物としての他人
カーヴァーの短編や掌編では、住まいに他人がまるで「異物」のように入りこむ話が目立ちます。
「異物」というのは、その住まいと住人(多くは夫婦なのですが)にとって不気味で異質な存在であり、何か不穏な事態を招く存在だという意味です。
『隣人』では、留守中の猫と植木の世話を頼まれたとはいえ、ストーン夫妻の住まいに入りこんで物色したり私物をいじるビルとアーリーンは他人の住居に侵入する「異物」と見なしていいと思います。
他人のテリトリーを、おかす、侵す、犯す、冒す――というわけです。
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はいる、入る、這入る、はいいる、這い入る。
はう、這う、延う、匍う。
はらばう、腹這う。匍匐(ほふく)。
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住まいに他人がまるで「異物」のように入りこむ話が、カーヴァーの掌編や短編には多いとさきほど書きましたが、作品名を挙げてみます。
*『大聖堂』
「私」という語り手の妻の友人である「盲人」ロバートが家に泊まりに来ます。このロバートが語り手の心や感覚を揺さぶるのですが、その揺さぶり方が奇妙なのです。
盲人に大聖堂がどんなものかを言葉と絵で描写するという思いがけない展開に戸惑う読者が多いでしょう。しかもその記述がじつに触覚的で、読者はあれよあれよという間にカーヴァーの術中にはまるにちがいありません。
*『ファインダー』
「両手のない男がやって来て、私の家を写した写真を売りつけようとした」という具合に始ます。この一文だけでもカーヴァーはうまいと思います(持論なのですが、ほのめかしの多い淡々とした筆致のカーヴァーは、意外とサディスティックなのです)。
男はトイレを使わせてくれと頼みます。トイレもカーヴァー特有の小道具です。語り手の「私」は、赤の他人であるこの男に自宅で、いわば「こき使われる」はめになります。
*『ささやかだけど、役にたつこと』・『風呂』
『ささやかだけど、役に立つこと』と、そのショート・バージョンである『風呂』では、交通事故で意識不明になった息子の入院中に、何度も自宅にかかってくる電話が「異物」となります。
ところで、それほど重要な要素だとは思えない風呂(bath)がタイトルになっているのは興味深いうえに不可解で、何か読み落としたのかと気になるほどです。
父親か母親のどちらか一方がいったん病院から帰宅して風呂に入っている間が、親子三人がばらばらになり、各人が一人になる時であるという意味で重要なのでしょうか。
ここでは、風呂が基本的に一人になる場であると指摘するだけにとどめ、その象徴的な意味については別の機会に譲りたいと思います。
*『ダンスしないか』
この掌編では、カーヴァー・ワールドで頻出する家具や生活用品が、ガレージセールという形で庭に出されます。庭がにわかに住まいの様相を呈するのです。
売主である「彼」は結婚が破綻したらしい中年男で、その家の庭に結婚前の男女が現れるのですが、ここでは住まいがもはや住まいではなくなっています。
庭に並べられた物たちが住まいを追い出された「主」で、中年男や若いカップルのほうが「異物」に見えてくるのです。カーヴァーによる自作の脱構築と評するのは、言い過ぎでしょうか。よくできた作品だと思います。
シットコムに似た作り
こうして一連の短編や掌編を振り返ると、カーヴァーの作品がシットコム(シチュエーション・コメディ)のように思えてくるのは私だけでしょうか。
あるちょっと変わった状況に置かれた人間の行動が描かれるのですが、引きこまれて読んだのちにひと息入れて思いかえすと、どこかおかしくて笑えてくるという意味です。
コントやギャグみたいに笑える。笑いがない状況であるゆえに余計に滑稽に思われる――。カーヴァーの作品についてよくいわれることですが、不条理なのです。
アメリカ人であるカーヴァーが、喜んでテレビのシットコムを見ていたような気がしてなりません。
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ところで、カーヴァーの掌編や短編のように、ささやかだけど優れたものについて語るさいには、語る内容やストーリーの解説には十分に気をつけなければならなりません。
つい詳しく語ってしまってネタバレになる恐れがあるからです。
話を戻します。
さらにエスカレートするふたり
掌編小説『隣人』では、さらにビルの行動はエスカレートしていきます。スイッチが入ってどうにもとまらなくなったようにも見えるほどです。
仕事を病欠までして隣人宅に入り、部屋から部屋へと移り、「目に触れるものひとつひとつを子細に検分し」、ついにベッドルームに入ります。カーヴァーらしいほのめかし的な描写が続きます。
ほのめかしというものは、それが目につくと扇情度はいや増すのですが、そう感じたときには、すでにカーヴァーの術にはまっているといわざるを得ません。
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ほのめかしの箇所を列挙しようとしたのですが、あまりにもいやらしく思えてくるので割愛します。
大切な部分だけを取り上げると、ビルはストーン夫妻の夫であるジムの衣服を着たり、靴を履いたり、何とジムの妻ハリエットの下着やブラウスまで身につけるのです。
夫のビルの常軌を逸したそわそわが伝染したかのように(いや、伝染したのでしょう)、妻のアーリーンもハリエット宅を物色し衣服を試着しているのを示唆する記述があり、引き出しの中にある写真を見つけたのよ、とビルに告げる場面もあります。
困った夫婦ですね。
驚きのラスト
小説を書く習慣のある者から見ると、こういう夫婦の行動を子細につづる作者の心理のほうが気になって仕方ありません。ちょっと待ってよ、そこまで書くか、カーヴァーさん、という感じです。
もちろん明かすわけにはいきませんが、この掌編のラストには驚愕します。
ざまあ見ろとほくそ笑む人と、ああかわいそうにと声を漏らす人に二分される気がします。
個人的には、深く同情してしまいました。たぶん、私が二人と同類だからでしょう。そんなふうに私に感じさせるカーヴァーは、意地が悪いと思いました。
出典
『隣人』は、『頼むから静かにしてくれ (THE COMPLETE WORKS OF RAYMOND CARVER) 』と『頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー) 』(ともに中央公論社刊)に入っています。
私は前者のシリーズを全巻揃えています。巻末にある各作品の村上春樹による解題が読みごたえがあり、そこだけを読んでいたことがありました。
この解題には、小説だけでなく文章を書くためのヒントがたくさん詰まっています。
村上春樹の著作では『若い読者のための短編小説案内』がいちばん好きなのですが、カーヴァーの作品群を対象にして村上春樹の繊細で周到な読みを味わえるのはうれしい限りです。
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