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歌、物語、散文

 今回は、このところずっと気になっていることを、まとめて書いてみます。

古井 それから、古代ギリシア語のほうに深入りした。(……)つまり文章全体全体を見れば主語が何かははっきり定まっているけれども、どうも文章の過程で、主語が拡散していることがある。当時の人々はこんな文章を読んで、論理的に把握できたのか、と思ったときに、ああ、おそらく読んではいなかった、聞いていたのだろう、と気付いたんです。
蓮實 うん、そうだと思う。
(「特別対談 終わらない世界へ」古井由吉・蓮實重彥(雑誌「新潮」2006年3月号)pp.112-113・以下同じ・丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)

蓮實 過去30年くらい、欧米の文学理論を席巻したナラトロジーというのは、結局小説を物語として捉えてその構造を分析するわけですが、語り手、ナレーターという言葉がかなり重要な意味を持ってきてしまう。だれが語っているか。その言表を客観化せよと。ところが日本の小説、これはほとんど樋口一葉からそうなんだけれども、言表の主体を客観化できないところから語っているわけです。
古井 はい、客観化できませんね。
(p.111)


思い出


 ある思い出から書きます。大学一年生のとき、専門課程に上がる前にあった「ラテン語文学入門」とかいう授業を受けました。当時一般教養と呼ばれていた一連の科目の一つです。

 のっけからラテン語の詩を、記憶だけを頼りに先生が黒板にどんどん書いていったのには驚きました。そういう抜群の記憶力を持つ人がいると知ったことに驚いたのです。

 ハーバード大学の古典語学科を首席で終えたという噂の先生でした。私のいた大学には非常勤講師として教えていらしたのです。

 ときどき、書くのをやめて、黒板に書かれた詩をながめて、数を数えるような仕草をしたり、なにやらぼぞぼそと口にし、板書を直していました。どうやら、音節を数えたり、韻を確かめていたようなのです。

 詩は韻文ですから、韻律があるのは当然なのですが、なにしろ長い長い詩でした。叙事詩みたいなものだったのでしょうか。いつの時代の誰の詩だったのかは覚えていません。

 私は必死で板書をノートに写していましたが、意味不明の文字列を筆写するのは大変でした。古代ギリシア語でなくてよかったです。

 半世紀以上経った今、老人となった私は、その授業の様子を、寝入り際の夢うつつのなかで、思い浮かべることがよくあります。

 それが実際にあった出来事の忠実な記憶なのか、それとも偽の記憶なのか、もう確かめるすべはありません。

うた、かたり、散文


 うたう・歌う・詠う・唱う・謡う・詩う、よむ・詠む
 たる・語る・騙る、物語る
 かく・掻く・書く・描く、つづる・綴る
 しるす・記す・印す・標す・徴す、誌す

 うたう、かたる、書く
 うた、かたり、散文
 歌・詩歌、物語、散文

     *

 広義の「うた」と広義の「かたり」を、言葉(音声)として口にされたものとして考えてみましょう。そして、最初から文字として書かれたものを広義の散文として考えてみます。

 大雑把な話で申し訳ありません。ここで書いているのは論考のたぐいではなく、あくまでも素人による駄文であり戯れ言として読んでください。私は何かの専門家でも研究者でもありません。

起源、引用、現物・原物、複製


 いつの時代、どこの話かも特定しません。うたは口にされ、かたりも口にされ、散文は文字として書かれた――。それだけを前提に話を進めていきます。

 うたとかたりは、音声としての言葉ですから、口にされたとたんに、つぎつぎと消えていきます。

 ここでは、誰かが誰かの目の前でうたとかたりを口にしているとします。それを耳にする人が少なくとも一人はいるという話です。うたとかたりは、口にする人とそれを耳にする人との共同作業だからにほかななりません。

 うたう人とかたる人がくちにする、そのうたとかたりは、その人が別の誰かから聞いたうたとかたりかもしれません。

     *

 口伝え、口移しに聞いた、うたやかたりであれば、何度もくり返して耳にしてきたものだったにちがいありません。

 それを誰かの目の前でうたったり、かたるのです。よほど記憶力のいい人なら自分が聞いたことをそっくり口にできるでしょうが、そんな人は珍しいでしょう。

 ずれる、かわる、つけたす、はしょる、はぶく

 そうしたことが起きるのが普通ではないでしょうか。これが、つたわる・伝わる、であり、うけつがれる・受け継がれる、です。

 なかには、こんなふうに、うたったほうがいいだろう、こう、かたったほうが面白いだろう、と積極的に変える人がいたにちがいありません。

 こうした、うたとかたりには、特定の作者も、特定の語り手もいません。あるのは、うたう言葉とかたる言葉です。

 人の身体を通って口から出てくる言葉がうたい、人の身体を通って口から出てくる言葉がかたるのです。

     *

 一方、文字で書く場合には、書いたものは消さない限りは残ります。残ったものは、当然のことながら、目に見えます。

 手書きで書いたものは、たった一つしかありません。一編と言うべきでしょうか。

 それを増やすためには、書き写さなければなりません。自分で書いた文章であれ、他人が書いた文章であれ、です。

 せっせと書き写します。

 ずれる、かわる、つけたす、はしょる、はぶく

 書き写すさなかに、そんなことが起きるほうが普通ではないでしょうか。これが、つたわる・伝わる、であり、うけつがれる・受け継がれる、です。

 なかには、こう書いたほうがいいだろう、このように書いたほうが面白いだろう、と積極的に変える人がいたにちがいありません。書き写しているものが、自分の書いたものにせよ、他人の書いたものにせよ。

 写本には異同や異本がつきものです。

     *

 このように書き写されてきた、うたやかたりにも、特定の作者や、特定の語り手もいないでしょう。文字がうたい、文字がかたるのです。

 むしろ、人の外にある外である文字がうたう振りをし、人の外にある外である文字がかたる振りをすると言うべきでしょう。

 目に見える物である文字は振りをします。人の外にある外である文字に人ができるのは、振付けをし、その振りを見て読むことだけです。

 振付けも振りの読みも、人による一方的で一方向的な行為であることを忘れてはならないでしょう。文字が人の外にある異物(外部)だからにほかなりません。

 そこが、人の身体から口を通して発せられること(事・言)である声との大きな違いです。

 振りとは外からしか見えない異物(文字)のありよう(かたち)であり、こと(事・言)とは身体から別の身体に声がうつっていくプロセス(さなか)なのです。

     *

 起源は、ずれる。現物・現物は、ずれる。

 ずれる、かわる、つけたす、はしょる、はぶく

 引用の引用、複製の複製、引用の引用の引用……、複製の複製の複製……。

 話は飛びますが、こうした状況が、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいが不明な今日の事態を招いているような気がします。

 起源、現物、原物をたどることが「できない」、現実的「ではない」。これは「ない」ということにほかなりません。

事、言、物


 ここでは単純に、次のように考えてみます。

 言葉を口にすることは出来事。出来事には始まりと途中と終わりがある。最初の音が発せられ、音の連続として途中があり、話し終わりとして音がある。

 出来事とは事なのです。

 言(発話)は事(出来事)である。事が言にされることもある。

 ことはことである。ことがことにされることもある。

 このように、ことを声として口にすることには困難が伴います。いわゆる表音文字の特質が浮彫りになるかのようです。

 もっとも、これを困難だと感じるとすれば、それは文字を知った者(私もそのひとりです)の困難だと私は思います。かといって、後戻りなど誰にもできないのです。

 かつては事が言であった時代があったはず。両義性や多義性が言の葉として生きていた時代があったにちがいない。私はそう信じています。

 両義性や多義性や曖昧さを排除し、あらゆるものを分析して明確にする――。

 後述しますが、こうした姿勢と態度は、事と言を一本化して固定化した物、つまり文字に置き換えるのが一般的になった時代の産物と言えるでしょう。

 人類にとっては比較的新しい態度と姿勢だと言えそうです。

 人類なんて大風呂敷を広げていますが、私は日本語とその表記で言辞を弄しながらしるすしかありません。

     *

 言(発話)は事(出来事)である。事が言にされることもある。

 このようにことを漢字にすることで、いわゆる表意文字の特質が立ち現れるかのようです。

 音声に文字を当てる。音声が文字に置き換えられる。文字にも始まりと途中と終わりがあります。

 始まりと途中と終わりのあるものが、始まりと途中と終わりのあるものに置き換えられる。そのようにも言えるでしょう。

 時間的な経過としてある始まりと途中と終わりのあるものが、紙面上の線としてある始まりと途中と終わりのあるものに置き換えられる、という意味です。

 音声と文字は別物です。事と言と文字は別物です。事物と言葉(音声)と文字は、それぞれが別の物です。

     *

 事である言が、単なる音声ではなくて、はなし、うたい、かたる人の顔の表情、声の抑揚と大きさと色、身振り手振りをともなう行為であるのを忘れてはならないでしょう。

 声だけでなく、振り(身振り、手振り、顔の表情)をともなう。それが言なのですが、声と振りは時間の経過の中で起きます。

 つまり、出来事であり、場合によっては事件や事故や事変にもなるにちがいありません。もちろん、祭事などの行事も出来事です。

 英語の accident に偶然という語義があるのは興味深いと思います。出来事は偶然の産物とも言えるでしょう。

 事である言は、言葉を口にする人と、そこに居合わせた人(たち)とのあいだで共有される、一時的で偶発的な出来事なのです。

 その都度その都度が、一回切りの一度だけの掛け替えのない出来事だと言うべきでしょう。

 通信、放送、配信、録音、録画に慣れきった今という時代に生きる私たちは、事というものを実感できなくなっている気がしてなりません。

 事と言と物とのさかいとあいだが不明になっているのです。そのために、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいが不明に感じれるのかもしれません。

 今述べたことは、現在においては大きな問題として立ち現れています。危機と言えるでしょう。

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 事(出来事)を言(音声としての言葉)に置き換えても、言は事ですから、口にされたとたんにつぎつぎと消えていきます。

 事を、あるいは言を文字に置き換えることもあります。文字は、たいていが紙に染みこんだ墨やインクの染みですから、消さない限りは物として残ります。

 人類の歴史における文字の登場は画期的な出来事だったと言えるでしょう。

     *

 もの、物、物質、物体としてある文字。

 文字は移すことも、写すことも、映すこともできます。

 移す:持ち運ぶ、送る、運搬、飛脚、郵便、移動
 写す:筆写、書写、写本・写経、印刷、複写、ファクス
 映す:放送、ネットでの投稿・配信・拡散・複製・保存 

絵のように見る


 口にされた、うたとかたり。ずれながら、口伝、口伝え、口移しされてきた、うたとかたりは、いつしか文字に置き換えられるようになってきました。

 文字は目に見えます。目で見て読むわけです。

 片っ端から消えていく音の連なりであった、つまり事であり言であった、うたとかたりが、物として残る。

 つぎつぎと消えていく時間的な流れが、目の前に物としてしるされ、平面上の流れとしてある、のです。

 しるす、印す、記す
 あと、痕、跡
 あと、後、うしろ(空間)、のち(時間)

     *

・時間的な流れである始まりと途中と終わり・つぎつぎと消えていく線・見えない線
・空間的な流れである始まりと途中と終わり・平面上(紙面や画面上)に線状にある物(文字列)・見える線

 文字とは、しるしであり痕跡なのしょう。傷痕でもあるでしょう。

 あと、後、うしろ(空間)、のち(時間)

 文字にも事としての側面があることを忘れてならないでしょう。文字は、もとは書かれるという出来事としてあったのであり、永遠に残り続けるものではありません。

 そもそも、人は文字を時の流れの中でしかとらえることができません。人において、文字は常に、うつろいの中にあるのです。

     *

 消さない限りはそこにある線状の物をながめるという行為について考えてみましょう。

 文章のことです。本の一ページに並ぶ活字の文章を思い描いてみましょう。

 点と線からなる模様や絵のような物ではないでしょうか。一面に描かれた模様であり絵。

 でも、よく見ると線状です。折れて、切れて続いている(行のことです)線なのです。

 線状ですから、絵や模様と違って始まりと途中と終わりがあると言えます。

     *

 一ページの文章を読んでいるさまを想像してみましょう。自分の目の動きを意識してください。文章を読むさなかには、どんなふうに目が動いているのか。

 目が線をたどる。縦書きであれば、上から下へ、次の行へと飛んで、また上から下へ。

 まるで絵や模様を見ているようではないでしょうか。見ると言うよりもながめるという感じ。

 文章のあちこちに視線を走らすとすれば、それは絵や写真の鑑賞に似ています。

     *

 それだけでしょうか。

 人が文字、文字列、文章を目にするとき、人は時間の流れの中にいます。文字はうつろいの中でながめられる対象としてあるのです。

 時には、視線は前にもどったり、先に飛んだり、斜めに跳んだりしませんか。

 あるいは、紙面を見ていながら、心がどこかへと移っていませんか。文字は文字として見ていると読めないのです。

 文字を目にしながら、意識はどこかへと行っているはずです。

 目の前にある文字と文字列に目を向けながら、意識や心や魂がどこかへと移っているのが読むという行為ではないでしょうか。

     *

 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。

     *

 始まりと途中と終わりのある物を始まりと途中と終わりのない物としてながめるのが「読む」なのかもしれません。

 途中だけがあるという意味です。読み始めるのも途中、読み終わるのも途中。

 途中、さなか、最中
 あいだ、あわい、さかい

 人は機械ではありません。人が機械的に目線を動かして読んでいるとは考えにくいという意味です。

 もし人が絵のように文章をながめるとすれば、その目は何を見ているのでしょう。その目差しは何に注がれているのでしょう。

分析、註解、批評


 現在、私たちは文字の読み書きが当然となった世界に生きています。言が事であった時代とは異なると言うでしょう。

 現在は、あらゆるものやことが文字にされています。

 宣伝文、広告文、報道文・ニュース、メール、手紙、SNSでのやり取り、経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集(詩歌・小説・批評)、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。

 しかも、投稿、配信、複製、拡散、保存が、ほぼ瞬時かつほぼ同時におこなわれています。

 投稿=配信=複製=拡散=保存と、等号で結んでもかまわない状況が日常的に起きているわけです。

     *

 そんな時代に何が起きているのかと言えば、一つには、かつて事であり言であった、うたとかたりが文字にされることによって散文となっているという気がしてなりません。

 話がいきなり飛んで申し訳ありません(意識が散漫になっています)。

 文字が当たり前化した現在では、うたとかたりが成立しなくなっているのです。

 かつてのうたとかたりは今では文字として存在しています。言でも事でもなく物としてあるのです。

     *

 物と言っても文章ですから、線状に並んでいますが、上で述べたように、物としての文章は絵のようにながめられる対象になっています。

 人の目は、事や言のようにたちまち消えていく線としてではなく、絵のように上下左右、つまりは前後にかまわず、文字列としての文章をながめているのです。

 文章は、分析され、註解を施され、批評されているとも言えます。断つためには、その対象は固定されている必要があります。俎上に載せられていなければならないのです。

 事である言、つまり線状に進行する出来事であった、かつてのうたやかたりはながめられる対象ではありませんでした。

 目の前に物として固定されていないものを分析したり註解を付けたり批評できるでしょうか。

     *

 つぎつぎと消えていくものは身体で受けとめるしかありません。一回だけの出来事ですから、その出来事を体験するだけで精一杯なのです。

 分析、註解、批評、解説といったものは、固定して見えるものを対象にすることだと言えるでしょう。

 固定して見えるものとは、ここでは散文のことです。散文とは、ここでは最初から文字として書かれた文章を指すと考えてください。

歌、物語、散文


 歌と物語は文字にされることで散文に近づき、分析や註解や批評や解説の対象となった。うたとかたりの葉と花は散ったのである。

 たとえば、歌の中で歌われる猫は散文の中で書かれる猫ではない。

 猫にかぎらず、狼でも月でも太陽でも花でも木でも山でも川でも海でもいい。

 神話や説話や童話や広義の歌の中で出てくる、人以外の生き物たちや生きていない物たちは、言葉を話したり、人間のように振る舞ったり、人間と言葉を交わしたりする。

 空を飛ばないはずのものが空を飛んだり、星になったりもする。

 それは歌であり物語であるからにほかならない。

 散文ではないのだ。

 歌と物語を、分析や註解や批評や解説の対象にして、ことわりの餌食にすることは、そこに登場するものたちの命を奪うことかもしれない。

 ことわり、言割り、事割り、理、断り
 断つ、たつ、絶つ、裁つ、截つ

 歌われ、物語れたものたちの葉や花を散らして、その命を枯らしてはならない。

声、文字


 声が文字によってかれてはならない。そんなふうに感じます。

     ◆

 本記事の冒頭に引用した雑誌「新潮」の対談は、現在ネット上で読むことができます。全三回です。

 
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