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「複製」という言葉のイメージ

 今回は「複製について」という連載の枠を外してお話しします。


*複製なのに複製に見えない


複製としての楽曲(複製について・01)
絵画の鑑賞(複製について・02)
複製でしかない小説(複製について・03)

 複製についての記事を書いてきて感じたことがあります。

 これだけ身のまわりに複製があり、世界は複製に満ち満ちているというのに、複製が目につかないのです。

 正確には以下のように言うべきなのかもしれません。

 複製なのに複製に見えない。
 複製なのに複製として意識しない。

 もちろん、そう言うためには、複製とは何かを定義する必要があります。私は複製を広く取っているようです。なにしろ私は文字と活字さえも、複製だと見なしています。

 自分で決めつけておいて、勝手にどんどん話を進めて申し訳ありません。私の記事は万事がこの調子なのです。

     *

 で、思うのですけど、文字に似ています。何がって、複製がです。複製は文字に似ているという思いが、このところ強くなってきました。

 以下は私がよくつかうフレーズです。

目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学と文芸(letters)が始まる。 

 目の前にある複製を複製として見ないことから、複製社会を楽しむ生活が始まる。

 そんなふうに言いたくなります。これは、複製という言葉にはネガティブなイメージがまとわりついているからだと考えられます。

*言葉を通して世界を見る


 私たちの身のまわりにあるもので複製ではないものを探すのは難しい時代になっています。

 大量生産、印刷、テレビ放送、ラジオ放送、電話――こうしたものすべてが、複製を基本として成り立っています。

 大量生産と印刷が複製を生みだしていることはわかりやすいしょう。一方の放送や通信は、再生装置(テレビ受像機やラジオやスピーカーや画面)をもちいての複製の再生と、デジタルデータの変換による複製の伝達という形で、複製を生みだしていると言えそうです。

 投稿・配信・複製・拡散・保存が、ほぼ同時に、ほぼ瞬時に起きているインターネットもまた、その根っこに複製があります。ネットにおいては複製と「投稿・配信・拡散・保存」が同義だとさえ言えそうです。

     *

 それにもかかわらず、私たちは今挙げたものたちを複製として意識することは、まずありません。理由は単純で、そうしたものたちを複製と呼んでいないからにほかなりません。

 どう呼ぶかどうか、つまり、どういう名前・名詞・名称・呼称をつかって指し示すで、物や事や現象のイメージが形成されるのです。

 私たちは言葉というフィルターを通して世界を見ている、というお馴染みの言い回しを挙げればわかりやすいかもしれません。

*「複製」という言葉のイメージ


 複製に囲まれて生きている私たちが、なぜ複製を複製として見ていないのかは、「複製」という言葉のイメージがネガティブだからなのですが、具体的にどんなイメージなのかを見る前に、「複製」の類義語を見てみましょう。

 ついでに、「複製」の対義語である「オリジナル」の類義語も挙げてみます。

*複製:複写、模写、模型、写し、コピー、レプリカ、似たもの・似せたもの・にせもの、模造品、模作、まがいもの。
*オリジナル:原物、現物、実物、本物、ほんまもん。

「複製」とその類義語たちを眺めていると、恥ずかしさ、ざんねん感、敗北感、うさんくささ、卑下、軽蔑といったイメージがまとわりついているのを否定できません。

 それに対し、「オリジナル」とその類義語たちは立派に見えます。「どうだ」と胸を張っている感じがします。

 複製には、影や陰や翳のイメージがあるのです。陰、隠、淫、印という感じもします。

*「複製」はレッテル


 あなたの目の前は、「複製」と呼ぶことも可能な物たちがあるはずです。なかには自分が大切にしている物もあるのではないでしょうか。

 大量生産されたり、印刷されたり、撮影された物たちです。

 それらは「複製」ですか? 「複製」と呼んでいますか?

 私の目の前のテーブルの上には愛読書、予定や数値を書きこんだ手帳、ノート、パソコンがあります。脇にある椅子の上には愛用の鞄と帽子が置かれています。少し離れたところには母の遺影が見えます。

 私はそうした物たちを「複製」として意識していないし、「複製」と呼んだことは一度もありません。

     *

「複製」とはレッテルなのです。そもそも名詞とは、どう呼ぶかの問題なのです。ある物の一つの属性を指して名付ける、それが名詞の役割です。

 紙、インクの染み、印刷物、本、文庫(本)、講談社文芸文庫、『仮往生伝試文』、文芸書、小説、純文学小説、作品、文学作品、古井由吉の作品、私の愛読書……。

 ある属性だけに絞れば、どんな物も複数、あるいは多数の名前で指し示すことが可能です。実際、そうなっています。

 その意味で、名詞とはあだ名の延長線上にあるものだと私は考えています。名詞とは、ある事物や現象の、ある一点(属性)に注目した名称であり呼び名なのです。

 一点で一本化しようとすることに、強引さや大雑把さや杜撰ずさんさや愚かさや怠惰や横着や迂闊うかつや恐ろしさや、時には悪意――このように「一点で一本化しない」のは意外と大変です――を私は感じます。名詞の、ではなく、ヒトの、です。

 名詞の使用は暴力ではないか、とさえ思うことがあります。

*レッテルは目に見えない


 動植物や星座の名前がわかりやすいでしょう。あだ名としか思えないものがたくさんありませんか? 

 名詞、名称、呼称なんていうと厳めしく偉そうですが、しょせん呼び名であり、ある特徴をとらえた短いフレーズ、つまり、ぶっちゃけた話が、あだ名ではないでしょうか。

 名詞さま 正体見たり あだ名かな

 生物の名前で例を挙げようと思いましたが、あまりにもその相手に失礼なネーミングが多い(自然に沿ってちゃんと生きている生き物への侮辱です)ので遠慮しておきます。

 名前(ヒトがとても大切にしているものです)に相当するものは自然界には見当たりません。名前(ひょっとするとヒトにとっての原点です)は不自然なのです。ひょっとすると反自然なのかもしれません。

 この星でのヒトのおこないを見ているとそう感じます。

     *

 話を戻します。

 人だって同じです。

 たとえば、会社員、○○職、母親、妻、パートナー、妹、姉、娘、孫、○○会会員、○○の住人、○○さんの友達、○○校の卒業生……。

 氏名だけでなく、さまざまな呼ばれ方をされているはずです。

 そのどれもが○○さんなのです。○○と呼ばれている人間なのです。

 見えるでしょうか? そうした呼称、名称、名前、名詞が見えますか?

 レッテルは目に見えない。

 レッテルは貼るものだと言われていますが、貼って剥がすほどのものではありません。もともと名前に実体などないのです。

 あなたはレッテルを見たことがありますか? 手で触ったことがありますか? 私は誰かがレッテルを貼るのも外すのも見たことがありません。

*名付ける、分ける、別れる


 もともと名前に実体などないことをめぐっては、ウィリアム・シェイクスピア作の『ロミオとジュリエット』の台詞を思いだします。

 この作品のテーマの一つは「分・別」、つまり「わける・わかれる」です。

What's in a name? that which we call a rose
By any other name would smell as sweet.

なんぢゃ? 薔薇ばらはなは、ほかんでも、おなじやうにがする。
(坪内逍遙訳)

青空文庫

     *

 この問題をめぐって、ぶ厚い本を書いた人もいます。

 その本の中では、最初のほうで、ホルヘ・ルイス・ボルヘスを引き合いに出し、分類について書かれいます。「分類」、つまり「分ける」ことです。

 申し遅れましたが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』のことです。

     *

「名付ける」ことは「分ける」ことと同時に起こっています。分けなければ名付けられないのです。

 わける・分ける・別ける

 分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。

 party (「部分・分ける・別れる」を意味する part から来ています)には「政党」という語義もあります。

 上の漢語熟語そのままではありませんか。実に分かりやすい例です。なお、この例における「分別」は「ふんべつ」ではなく「ぶんべつ」ではないかと、にらんでおります。

*「同じ」ではなく「似ている」


「複製」という言葉の根っこには「同じ」という発想があります。

「複製」には、「同じ」物が複数、あるいは多数、場合によっては無数に存在するというイメージが前提にあります。

 この複製とあの複製は同じである――。 

 こういう場合の「同じ」って「同じ」なのでしょうか? 

「はかり」(「はかる」ためにつくられた道具・器械・機械・システムのことです)が「はかった」という意味での「同じ」だけではない気がします。「似ている」もありそうです。印象とかイメージのことです。

「似ている」と「同じ」は似ています。

 両者は、よく「似ている」ので混同します。

 つい同一視してしまうのです。もしそうだとすれば、人が「似ている」を基本とする印象の世界で生きているから、ではないでしょうか。

 何かと何かが「同じ」かどうかを「語る」資格が、「はかる」ことの苦手な人(「はかり」という物に外注するしかないという意味です)にあるのでしょうか。

「語る」と「騙る」、そして「測る・量る・計る・謀る」が「同じ」音であることは興味深い事実です。もちろん、日本語での問題ではありますが。

     *

 人は「分ける」のが得意ですが、「似ている」と「同じ」の区別は苦手なようです。こうした印象を「分ける」ことに無理があるのかもしれません。私には「分かりません」。

 それはともかく、そもそも「同じ」とは、あるものの、ある側面(属性・部分)についてだけを言って、そのもの全体についての話ではないはずです。その意味で「同一」とは異なります。

「同じ」と言うなら、どこが、あるいは何が同じなのか、という話なのです。

 つまり、「同じ」という発想の根っこには「分ける」があるのです。

 たとえ「同じ」部分があったとしても、一つの属性(部分)で「同じ」だなんて決めつけてほしくありません。

「同じ」とはレッテルなのです。

     *

 人も物も「同じ」ではなく「似ている」し「まちまち」である、つまり「一人ひとり/一つひとつが違っている」と私は言いたいです。

「似ている」も「まちまち」も「違っている」もレッテルなのでしょうが、「同じ」よりは、ずっとましだと私は思います。 

 たとえば、私が大切につかっている鞄は、それと同じメーカーが製造した同じ型の鞄とは「同じ」ではありません。私にとってその鞄は掛け替えのない世界でたった一つの鞄なのです。

 私にとって、「鞄(たまたま鞄と書きましたが、カバンでもあり、bagでもあり、他の言語では異なる言い方がされているはずです)」という名詞も要らないくらいです。

 名詞は見えません。見えるのは目の前にある物なのです。

     *

 世界に名詞的なものはない、動詞的なものならありそうだが、「動詞」の「詞」が不要だ。世界には「動」があるだけ――。

 このところ、そんなことをよく考えます。古井由吉の文章を読みながら、よくそう考えるのです。

 このことについては、近いうちにぜひ記事に書いておきたいと思います。

 長くなってきたので、体調を考慮してここで止めておきます。


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