『コインロッカー・ベイビーズ』その1(好きな文章・02)
「好きな文章」というシリーズの第二回目です。私が一時期に心酔し、小説の手本にしていたことのある村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を取りあげます。長い作品ですが、そのうちで私が参考にした部分を引用して、そのどこが好きなのかを具体的にお話しします。
読点、鉤括弧、リズム
これで一段落なのですが、区切って、感想を述べます。
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・「ニヴァが中に進むと四人の美容師達が仕事を中断して挨拶に来た。」
このセンテンスには読点がありませんが、読みやすく感じます。リーダビリティが高いのは、漢字とひらがなのリズムが絶妙だからだと思います。
上の段落を目を細めて見てください。綺麗な模様を描いていませんか?
まさか村上龍が美大に在籍していたからだとは言いませんが、文章をいわば絵や模様として見ているのではないかと言いたくなる字面をしています。
強弱強弱強弱強強弱弱とか、濃淡濃淡濃淡濃濃淡淡という感じです。漢字が多いわりには、ルビもめったにつかわれていないので、字面がよけいに綺麗に見えます。
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・「店長は? とニヴァはその中の一人に聞いた。外出してますとリボンで前髪を束ねてた若い女が答えると、ニヴァは表情を変えずに、呼んで来て頂戴、と言って寝椅子に腰を降ろした。」
会話が鉤括弧でくくられていません。とはいえ、作品全体がこう書かれているわけではありません。
気まぐれに鉤括弧をつけたり、外したりしている印象を受けます。上の漢字とひらがなのリズムでも言えるのですが、即興、アドリブ、ジャズなんて言葉で形容したくなるほどです。
鉤括弧なしの会話といい、読点のないセンテンスといい、自分でやってみると難しいのに気づきます。テクニックなのでしょうが、この作品をものしたときの年齢を考えると、村上龍の場合には天性のものではないかと思わずにはいられません。
「頂戴」という表記も、ここで漢字をつかうと見た目のリズムがあり、ニヴァの台詞としてチャーミングでもあります。ベタ褒めになり、申し訳ありません。
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・「ハシはニヴァの後に立ったままでいた。しばらくすると太った男が野球のユニフォームを着て汗を拭きながら現れた。Pというマークの入った帽子を被って口髭を生やしている。」
「現れた」という表記ですが、村上龍は「現われた」とするのが多かったにもかかわらず、この作品では他の箇所でも「現れる」としています。珍しいのではないかと思います。
学生時代のことですが、「現われる」という村上の送り仮名が目につき、彼と同世代の作家の作品の表記とくらべたのを覚えています。自分と年の近い作家だけに気になったのです。
「Pというマークの入った帽子」は、なにげないディテールですけど、こういう細かい描写があると人物にリアリティが出ますね。たった二行の描写ですが、この男の容姿が目に浮かんできます。
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・「手と顔を洗い煙草に火を点けると、この子かい? とニヴァに片目をつむった。ニヴァはそうだと言って寝椅子から立ち上がり両手でハシの髪を掻き上げた。太った男にスケッチを見せる。男は奥から古くて厚い本を持ってきた。ページをめくって一枚の写真を指差す。ニヴァは頷く。ハシは写真の人物が誰なのか聞いた。」
息の長いセンテンスと短いセンテンスが交互に来て、読者の息を乱したり整えます。
この部分には時の経過があり、描写に遠近があり、動きがあります。視覚的な描写だと言えるでしょう。村上龍は美大を受験するために、おそらく無数のデッサンをし、たくさんの絵を描いていたと想像しますが、そうした過程で、物の動きや遠近を見る目を養ったのかもしません。
絵と言葉とでは描写法が大きく異なりますが、観察する眼はぜったいに必要でしょうね。眼があっての技術です。
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・「太った男はかん高く滑らかな声で、十七歳の時のブライアン・ジョーンズだと答えた。」
「太った男はかん高く滑らかな声で」、アンバランスな形容がリアルで臨場感を高めます。現実(リアル)は意外とアンバランスなのです。
「十七歳の時の」というディテールと、突然登場する「ブライアン・ジョーンズ」という固有名詞。知らない人名でも、そのイメージの喚起力に納得してしまうかもしれません。
説明なしの固有名詞は――たとえそれが架空のものであっても――、読む者の魂を揺さぶります。
約物
私は小説を書くことがありますが、この作品でいちばん参考になるのは、上で述べた読点のないセンテンスと、鉤括弧なしに会話と地の文を融合した書き方です。
そもそも日本語では、鉤括弧や句読点はなかったらしいのです。私は古文が大の苦手で「らしいのです」としか言えないのですが、たしかに古い和文の写本を見ると、約物は見られません。
逆に現在つかわれているルビをふくめ、約物の祖先らしきものが見えるのは漢文の書物(とくに学習者向けにつくられた漢文の手引き書のようなもの)なのですが、漢文についても私は無知なためにコメントできないのが残念です。
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とはいうものの、野坂昭如の句点の少ない文章が好きでたまりません。
野坂の作品でもっとも知られた『火垂るの墓』をご覧になると、アニメの印象とはぜんぜん違った古めかしい文体で書かれているのに驚かれる人も多いと想像します。
上で見た『コインロッカー・ベイビーズ』からの引用文の特徴は、センテンスに読点が少なく、鉤括弧が少ないことですが、野坂の文章では、読点が多いのに句点が少ないのです。
結果として、作品の冒頭で、句点が最後に一つしかない段落がつづくという形になります。これは現物を見ていただくのがいちばんいいと思います。
でも、好きなんです。私は野坂昭如の文章が好きで好きでたまりません。
とはいえ、真似たことは一、二度しかありません。その経験から自分には書けない文体だとよく分かりました。それでも好きなのです。
一人称、三人称
村上龍の小説は一人称の語りによるものが多いです。三人称による多視点で書かれた『コインロッカー・ベイビーズ』は村上には珍しい作品だと言えます。
とくに、女性を語り手とした小説で、上で述べたように鉤括弧と読点が少ない、長編『イビサ』と短編集『トパーズ』が好きです。
『イビサ』から、あまり過激ではない語りの部分を引用します。
読点がきょくたんになく、会話には鉤括弧がありません。会話、描写、回想、思いがフラットに並べられています。ぶっきらぼうなくらいに。
ただし、会話が鉤括弧でくくられていない書き方は、作品全体がこう書かれているわけでありません。『コインロッカー・ベイビーズ』と同様に、気まぐれに鉤括弧をつけたり、外したりしている印象を受けます。
そこがいいのです。
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この部分で私が惹かれるのは、読点のない描写文です。かつて、村上龍の小説で気に入った箇所をノートに大きめの文字で書き写し(もちろん縦書きです)、各行をハサミで細長く切り、さらに単語の区切れ目で切断したことがあります。
助詞も切ることがポイントです。長いセンテンスだと、「と」「は」「が」「の」「を」「に」「で」「だけ」「こそ」が正方形や長四角の形をして散らばることになります。
一センテンスがばらばらになったところでシャッフルして、そのセンテンスを自分で組み立ててみるのです。村上のセンテンスがいかに正確かつ論理的かつリズムよく組み立てられているかに感動しました。
思いだしているうちに、またやってみたくなりました。この記事を書き終えたら、さっそくやってみます。
「十七歳の時のブライアン・ジョーンズ」
『コインロッカー・ベイビーズ』に登場する固有名詞は、じつに多いです。主人公の一人であるハシが歌手になる話ですから、海外のミュージシャンだけでなく、日本の演歌歌手や流行歌の歌い手の名前もたくさん出てきます。
講談社文庫の旧版の『コインロッカー・ベイビーズ 下』p.81では、このようにフランク永井の歌った「有楽町で逢いましょう」の出だしが引用されたりもします。
(幼かった私が初めて歌い覚えた歌なので、この作品が出版されて間もないときに、この箇所を読んで思わず声をあげたことを覚えています。村上龍と私は年が近いのです。)
この前後では、現在と過去が交錯し、猥雑さと暴力性と耽美が混合した比喩を多用した迫力のある描写がつづくのですが、ぜひお読みいただきたいと思います。
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さきほど引用した段落に出てくるブライアン・ジョーンズについては、私は無知なので、参考としてウィキペディアの解説へのリンクを貼ります。
私も読んでみましたが、波乱に満ちた短い人生を送った人なのですね。
YouTubeで検索してみて、以下の動画がブライアン・ジョーンズの生涯を簡潔かつ視覚的にたどれると思いました。
とりわけ、16歳から17歳にかけて彼に起こった出来事は、人格の形成期にあった少年ブライアンにとって大きな傷痕を残したにちがいありません。
ミック・ジャガー
『コインロッカー・ベイビーズ』では、ブライアン・ジョーンズだけでなく、ミック・ジャガーについての記述もあります。ジャガーにまつわる興味深いエピソードが紹介され、村上龍らしい過激なシーンが盛りこまれているのです。
そのシーンは別個にあつかいたいので、次回にまわすことにします。私はミック・ジャガーのファンで、書きたいことがいろいろあるのです。
Brian Jones & Mick Jagger interview 1964
(つづく)
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